まだぼーっとしています
昨日のマッサージでは「よくもここまで」というくらいに背中がバリバリでした。眠れなくなるはずですね。風邪じゃないのに、咳とかの症状が朝にあったもん。(起きたら治るの)
ブログ村のランキングバナーの自作のものを持ってきました。
バナーがらみのつぶやき、かな。
昔、母が「具合が悪い10年よりもバリバリ健康な1年が欲しい。神様が『交換したる』と言うてくれはったら、そうしたい」と言っていた。その気持ちが切実にわかるし、当時の母も苦しかったんだなあ、とも思う。
老年になってからの「バリバリ元気ではない数年」というのは残酷なんだろうか?と、それもまた悩む。答えは出ないけど、胃ろうでいい、と言ってくれたってことは、まだ生きててくれるという気持ちなんだな、とも思えるし。
自分が母の歳になって、元気じゃなくて、お金もなくて、自由に動けなかったら、私は胃ろうはなくていいと思う。
むしろ、それよりも若くして死ねたほうがいい。
母の「バリバリ元気な60代の10年間」は神様のご褒美だったのかも…。
哲学しないと生きていけない病気
「休みます」と言いながら、ブログ連続更新も連続700日近くなると、なんとなく休むのがもったいなく思えてきます。2年近く休みなしってことだよね。別に誰も褒めてくれないし、賞状が出るわけでもありませんが。自分がなんとなく休みたくないんだよね(^_^;) 困った奴ですね(^_^;)
やりたいことが出来て自由に過ごせるのなら、本当に寿命が短くなっても全然かまわない。だから寿命を伸ばすような注意はしたくない。
ずっと自分の身体の声と価値観だけで好きなように生きていたい。
それで早死にしても本望なので、気にしないでください(^^)
私はもう伯母よりもすでに長生きしてるし。
理解していても、「もしかしたらもうよくなったんじゃない?」と思っているところから急降下する落差が何度経験しても最悪(ーー;) 特に不本意な事情からその急降下のきっかけになったりしたら余計に。
いきなりの落差が注意を上回ることも多々あるから油断できない。この落差が一番残酷かもしれない。
「負けないもん」と何百何千回つぶやいたかわからない。ひたすらに孤独な自分との闘いの中で。
多分「死」は肉体があるゆえの不自由からの解放
これも本当に実感だった。特に在宅介護の最中は。
軽躁の時は楽しかったこと、嬉しい記憶、前向きにスポットライトが当たるけど、うつになると一転、辛い記憶や悲しいことばかりにスポットライトが当たる。どちらも本当に経験したことなのに、時として、同じことについてもライトの当たる方向や色が変わって、まったく違って見える。奇妙な病気ですね。
私は経験はないけど、影絵のようなものに惑わされるのが統合失調症の症状なんだろうか?とも思う。
できることなら、人生の最後に振り返る走馬灯は本来の綺麗な色でありますように。
私には気がかりな子供もいないから、
ずっとしんどい10年を元気で動ける1年と交換してください。