ちょっと気が抜けてるみたい
緊張と緩和と言いますが、やはり緊張していたところから緩んだら、血圧が下がったのはもちろんですが、またドーッと眠気に襲われています。多分今までどこかテンパってたんだと思います。それが市営住宅落ちちゃった、というタイミングでなんか緩んだ気がします(ーー;)
反動というか、双極性障害っていうのはそもそもその差が大きい病気なのかもしれません。
だから昨日は半日くらゴロゴロしてました。起きるのも辛くて。ヘルパーさんが来られたので、少し話をしたくらいかな。あとちょっとラフを描いていました。ぼちぼち進めていたらいつか出来るだろう、と思って。
公営住宅の事情
ついでに府営住宅についても調べていました。
なんで府営じゃなくて市営を優先したかというと、介護が必要になった時、介護は市の仕事になってややこしいから、って誰かに聞いた気がします。(もはや思い出せないけど)
府営住宅も似たようなものですが、やはり不便なところしか空きがないみたい。障害者優先の団地でもやっぱり不便(ーー;) 不便なところばかりに公営住宅が出来るのはやはり土地が安いからなんだろうな。障害者、高齢者、子供を抱えたひとり親、誰にしたって不便なところで生活するのって嫌だよね。
公営住宅は不便なところしか空いてない印象しかないぞ。そりゃあ、少しでも環境が良くて便利なところに希望の票が集まっても仕方がないです。もうちょっとなんとかならんかなあ…(*-д-)-з
28日は母の一周忌
そうこうしていたら、母の高額介護合算療養費&高額医療合算サービス費の申請書が来て、もう一年経つのか、とちょっとしみじみしてしまいました。すごくあっというまの一年だった気がします。
こういうのも申請しないと返って来ないんだよね。どのみち万単位ではないと思いますが、固定資産税を払っておいて欲しいと言われているので、そのための出費も痛いし、戻ってくれば嬉しいです(^_^;)
両親共に身体障害者でもあったので、何がどういう計算になるのかよくわかりませんが…。
母の場合は最後の入院に付き添った時、検査や何やらで院内をうろうろしていても、眠りがちだと思っていたけど、あれって徐々に意識が薄れていく過程だったのかもしれない、と思います。ただ、入院の翌日に色々手配して、三日目は私がダウンして病院に行けなかったんですね。
その深夜にひっそり亡くなりました。心臓マッサージとか呼吸器とかはもうやめて欲しい、とお願いしていたので、静かな死だったのではないかと思いますが、本音では「あと30分待ってて欲しかったなあ」と思っています。ギリギリでいいから間に合いたいと思ったんですが叶わなかったのがやっぱり残念。
わざとひっそり逝く人もいる、とかって聞くけど、8人部屋の端っこで一人で逝ったんだなあ、と想像するとそれだけが心残りです。なんであの日にダウンするかな、と自分が悔しい(/_;)
言葉じゃなくても伝わってる
最後に特養にご挨拶に行ったら、何人かの介護士さんたちが「私たちがお世話をすると、ようやく動く右手で頭を撫でてくださいました」と言ってくださったので、それは母なりの感謝と親愛の動作だったんだなあ、と思いました。最後はほとんど喋れなかったので。
自分の意志で動かせるのがなほぼ右手だけでした。いかにも母らしいなあ、と思います。
この話をTwitterで書いたら介護士のフォロワーさんたちが「何、それ。泣くよ (/_;)」とリツイートしてくださってたんで、ちゃんと伝わってたんだなあ、と思います。母を知らない人たちが理解してくださった、というのはありがたいことでした。
今年は冬柑橘を随分食べたけど、いままでそんなにまめに食べてなかった私なんで、あれは好物だった母のかわりに食べてたんだと思います。
10年経っても父の方が身近に感じることが多いんですが(あちらでの用事がそれなりに済んでるのかも)、母の方はそうじゃないから不思議です。なんかもう「任せた」と言われてる気がします (^_^;)
でも思い出すと泣けるけどね(^_^;)
SMAPの「オレンジ」でもやっぱり泣けるけどね(^_^;)
ラフ。杏珠のつもりで描いてたら少年になったので、少年でもいいや、と (^_^;)
どのみち水干姿ですしね (^_^;)