お互いさま おかげさま ありがとう

両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

あの頃は希望も息づいていたのに

 

 

また寝てました。こうなるから午前4時起きはやめた方がいいね。朝ご飯軽く食べて、薬も飲んでまた寝てたの。訪問に時間も取られるし1日短いですね(^_^;)今日も昼間マッサージと夕方看護師さんの予定。

 

だからやっぱりタイムアウトです(ーー;) 看護師さんに「少しお痩せになりましたか?」と言われましたが、そういうえば寝ている時間が長くて食べる量が減っているかも。そして全然料理する気力もないので、がっつり栄養のあるものは食べてないですね、私も弟も。まあ、すこしくらい痩せてもいいです。仕様がないです。

 

ブログに書こうかと思っていること。いろいろ思い出していたら過去からの出来事がつながった気がする。「私」と言う人間は1日にしてならず、とでも言いましょうか(^_^;)でもどこにもはまらない人間のような(^_^;)

 

 

精神疾患の患者さんに図書館は利用しづらいイメージがある。安定して活字が読める時期が限られていたり、何日までに返却と決まっていてもその日に来館可能か本人にも予想が出来ないから。読める期間が短いのが最大のネックかも(^_^;)

 

私も元気だった時しか行ったことないな…(-_-;) 今はその図書館の向かいがクリニックです(^_^;)

 

 

 

 

私の基本姿勢は「去るもの追わず」でいいんだけど、やっぱり寂しさはあるからね…( ;  ; )

 

 

 

 

 

そろそろカウントダウンしてもいいのかな?あまり体調が良くないので、なにか支えがあった方が励みになるかしら?ここまできたら「10000」という数字を見てみたいです(^^) 私ってこれ以外に才能ないかもしれないけど(^^;)すくなくとも頑張って生きては来たんですよね(^^;)

 

 

 

 

 

やっぱり。恥ずかしいな。

 



 

このかたのツイートが心に残ったので、メモがわりに引用させていただきますね(*^^)

 

 

 

これは実話ですが、戦後間もないころ、ニューヨークに留学した日本人女子留学生がいた。人種差別やいじめにもあい、栄養失調から重病になってしまった。医者からはモンロビアの病院に行くように言われた。モンロビアはニューヨークから特急列車で5日もかかる町だった。5泊も車中で過ごす長旅はキツく彼女は憔悴した。用意した食料は3日で尽きたがパンを買うお金はなかった。車掌がサンドイッチを持ってきて言った。「キミは病気だね。お金はいらないからこれを食べなさい。」さらに車掌はどこまで行くのかを聞いた。彼女は「終点のロスでおりて、その後バスでモンロビアの病院に向かいます。」

 

その列車は特急なのでモンロビアの駅には停車せず通過し、一気にロスまで行くことになっていた。車掌は電報で鉄道省から許可をとり、車内放送を流した。『乗客の皆さん、この列車にはモンロビアの病院に向かう日本人の女子留学生が乗っています。彼女は重病です。明朝モンロビアに臨時停車します。』これは、今で言えば新幹線を臨時停車させるくらい大変なことだ。

 

次の日の夜明け前、列車はモンロビアに臨時停車した。彼女は他の乗客に気づかれないように静かに駅に降りた。するとなぜか列車がざわざわついていた。すべての車両の窓が開き、乗客たちが身を乗り出して口々に何か言っていた。…“日本人である自分に何か嫌なことでも言っているのかとも思ったがそうではなかった。名刺、住所や電話番号を書いた紙切れにドル紙幣をはさんだものが、まるで紙吹雪のように彼女に投げられた。

 

『きっと助かるから安心しなさい』『人の声が聞きたくなったら、私のところに電話をかけてきなさい』『手紙を書きなさい。寂しかったらいつでも』『困ったら連絡しておいで』

 

と口々に声をかけてくれた。彼女は涙で列車が見れなくなった。それから3年の月日が経った。彼女の入院中、毎週毎週、見知らぬアメリカ人が見舞いに来た。列車の乗客だった。退院する日、膨大な治療費を払おうとすると乗客の中の一人のお金持ちが全て匿名でお金を払ったあとだった。

 

この話は、作家・評論家の犬養道子さんの実話です。戦後間もない時期に、戦時中は敵国だった国に留学し、そこで重病になってしまった女子学生がどれだけ不安だったことか。同じ列車の乗客たちはそのことを感じとりそれぞれが自分にできる形で、当時の犬養さんを励ました。病気が全快して退院した後は、世界の飢餓問題や難民支援活動に尽力され、2017年に96歳で他界した。列車の乗客たちとの出会いが、彼女の人生にもたらした影響は大きかった。困った時に見返りを求めずに助け合える。こんな素晴らしいことはない。

 

こういうの弱いです(T_T) 彼女を心にかけてくださったすべての人がどうぞ幸せでありますように…(^_^;)

 

見知らぬ人の親切は父も体験しているので、1970年ごろにはまだこういう気風がのこっていたのではないかと思います。庶民レベルの良心と親切の交流。

 

そういうものが徐々に薄れて行ったのはなぜかなあ……?

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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