お互いさま おかげさま ありがとう

両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

まだ浮上できませんね

 

2人揃ってうつみたい

 

弟も今、鬱で過眠みたい。今日のお昼くらいは作っても食べるかな。あんまり食べない、動かない、ほとんど寝てる、と言うわかりやすさです。マッサージも寝ながら受けてたみたいです。

 

私個人は明け方からが不調です。だから朝が辛い状態。午前3時ごろからなんとなくマシになってくるまで数時間かかる感じですが、まあ仕方がないかなあ…。料理するのが苦痛だなあ(TT)

 

 

考える庶民は治世者にはよろしくない

 

 

これ、いろんな場面で言えると思うんだけど、私はわりと、抵抗なく出来ちゃう方かと思います。

前例がなければ今作ろう」とも言っちゃうし。どういう選択をしてどう動けばどういう結果につながるかも結構予測できるので、自分が思うように動けないことがかなりもどかしいです( ;  ;

察して理解して動いてくれる人とかそばにいないしね。

 

上の立場にいる人がわかる人じゃないと駄目なのか。本当に何事につけてももどかしいな。

 

せっかくの人生で本当にいろんな経験をさせてもらっているのになー(ーー;)

 

 

「みんなと同じでないと不安」というのがもう刷り込みされてるのよ。教育からすでに。

 

 

 

 

宮島の鹿さん

 

 

 

ずっと気になっていた宮島の母鹿さん、やっと保護されたみたいですが、もっと早く出来なかったのかな?それこそ「今前例を作りましょう」ケースかも。野生だとか観光よだとか、地元の役所が見離してはいけないですよ。

 

私には人間も動物も同じく「今、生きている命」にしか見えません。人間でも立場の弱い人に対しては無慈悲なのかと思ってしまう。

 

「ニンゲンなら助けてくれるかも」ってきっと思ってたんだと思います。犬や猫ならもっと簡単に助けられたと思うんですが、さすがに鹿となるとね。獣医さんが見つかってよかった。でも個人が医療費をなんとかしようと思ったら数十万かかるらしいです。それは発見者さんも躊躇するかな。後から募金するとして今の世の中では一時建て替えも大変ですし…。でも何もならなければ死んじゃう…( ;  ; )気が気じゃないよね。

 

SNSが見放さないことが多少は効果になっている気はしますが。

 

よかった。やっぱり神様のお使いだけに案じておられたと思います。あとはこのチャンスになんとか生命ながらえて欲しいです。どうぞよろしくお願いします。

 

なんか最近人と動物に感覚の差があまりないように感じています。動物愛護ともちょっと違う。同じ星に生きている仲間と言うか、家族というか。

 

 

 

 

見捨てられないノブレスオブリージュ

 

お知り合いからお聞きしたことがあるのですが、川岸で倒れているホームレスの男性がおられて、休日の昼間で周辺で遊んでいる親子連れも少なくないのに、誰も声をかけず。見ようともしない。見かねた旅行者である彼女は救急車を呼んで病院に連れて行かれた。

 

ここで問題になるのはお金のことですが、たまたま彼女は海外でも割と裕福な家におられたので、かなりなんとかされたんだと思います。その後、彼女の友人でもある別のお知り合いはホームレスの方の自立を目指し、ヘルプするNPO法人を立ち上げられました。

 

そういう行動が当たり前の人たちだから、私も当たり前だと思っています。お金はないけど(^_^;) 体力もないけど、せめてわずかなりと出来る範囲で。ノブレスオブリージュができるのは恵まれた立場の人の特権みたいな感がありますが。

 

献血すらできない現状がとても悔しいです( ;  ; )

 

 

 

この言葉自体は1808年ピエール=マルク=ガストン・ド・レヴィの記述「noblesse oblige」を発端とし、1836年オノレ・ド・バルザック谷間の百合』にてそれを引用することで広く知れ渡ることになる。

英語では、ファニー・ケンブルが、1837年手紙に「……確かに、『貴族が義務を負う(noblesse oblige)』のならば、王族は(それに比して)より多くの義務を負わねばならない。」と書いたのが最初である 

最近では、主に富裕層有名人権力者高学歴者が「社会の模範となるように振る舞うべきだ」という社会的責任に関して用いられる。

ノブレス・オブリージュ」の核心は、貴族に自発的な無私の行動を促す明文化されない不文律の社会心理である。それは基本的には、心理的な自負・自尊であるが、それを外形的な義務として受け止めると、社会的(そしておそらく法的な)圧力であるとも見なされる。

法的な義務ではないため、これを為さなかったことによる法律上の処罰はないが、社会的批判・指弾を受けたり、倫理や人格を問われたりすることもある。

                         Wikipedia

 

 

 

潜在意識の無意識な書き換え?

 

子供の頃、と言ってもおそらく5歳以前のことだと思います。夏休みに海水浴に行った京都の海の日本海側に、波打ち際に背の高いブランコがありました。子供が乗るには高すぎるかな?でも日没過ぎの紫の光の中で見たブランコが忘れられませんでした。

 

で、私はその記憶をずっと夢だと思っていました。同じ場所には2度と行けず確認もできなかったからです。しかし近年、そういうブランコの写真に出会いました。場所はどこだかわかりませんが、インスタ映えするとのことで、あちこちの海岸に設置されてるようです。ですので数十年昔にも実際にあってもおかしくないと思いました。

 

 

こういう波が来る場所。

 

それで気がついたのは、私は無意識の中で潜在意識の書き換えをしているかもしれない、と言うことですね。悪夢を見なくなって20年以上経ちますが、あの悪夢はもう恐れたりする必要はないと自分で納得したのかもしれません。まあ、介護に携わって自分の価値を再発見したのもありますが(^_^;)

 

生まれてから今までの記憶の、真実のものには脚色がないです。若干の思い出補正はかかってるけど、多分。いい思い出は五感が総動員されて、臨場的に蘇ることが多いです。

 

反してマイナスの記憶はあんまり思い出せないです。思い出しても事象そのものだけで感情的なものは伴わないみたいです。

 

無意識のうちに色々とポジティブ変換していてもおかしくないかも、とこの頃思います(^_^;) その方が自分のメンタルが楽だから。それを睡眠中にやっている感じ。それも意図してやってないけど、夢も見ないで深く眠るのはおしかしたらそういうリセット作業なのかな?と思ったりします。

 

でもまあ、身体は正直だから、どうしても不調は身体症状になって出てしまうけど。この基本的な身体症状だって1、2歳ごろからずっと存在してるからなあ…。生きてる限りはリセットできないと諦めていますが。

 

自分ではそういうふうに思います。いや、それだけの話なんですが(^_^;) なんかしら海辺のブランコで思い出しました。

 

 



 

 

 

 

 

 

このこたちがいつも「いのちはたいせつだよ」って伝えてくれる(^^)

 

 



 

 

 

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