母のところに行ってきました。このごろ木・金・土がそれぞれに訪問サービスの日なので、大体月曜日になる受診も含めると、行ける日が、日曜か火曜か水曜日になってしまいますね。まあ、仕方がないかなあ、とは思いますが。
以前からしきりに上唇を引っ張ってなにかを訴えようとしているのはわかっていたんですが、それを理解するのが難しくて、今日やっと「半分」と「舌」というのが聞き取れて「舌が半分しか出ないの?」と確認したらそれで当たりでした。それを訴えたかったようです。だから喋っていても聞き取り辛かったんだなあ、と納得。それでもちゃんと食べられるからまだいいよね、というと頷いていましたが。もしも食べられなくなったら、本人とよく相談しないといけません。
私も髪の毛が伸びてるからカット行きたいけど、なかなか暇がない、それにこのごろ目立って髪が痩せた、というとあっさり肯定されてしまいました (ーー;) 男の人だたら禿げる心配しているところです。私はすごく髪が多くて、太くて困っていたくらいだったのに、身体は痩せないのに髪が痩せる理不尽… (ーー;)
1時間弱しかいないのに、また来て欲しいから「はよ帰り」というので、来週は月曜が受診で、火曜は年金支給日で、薬局にも行かないといけないから水曜日になるよ、とは行ってきました。もっと近ければさらにマメに通えますが、タクシー代かかるとそうも言っていられないので…。
でも帰りに写真を撮りながら、ここに通えなくなったら、本当に寂しいだろうな、と思ってしまいました (ーー;)
(ここって東福寺の一部だったんだな)
昨日、なんとなくそういう流れになって、流されないタイプ、と自分のことを定義してから、なんとなく検索したら、「流されない生き方」という本もちゃんと出ていたんですね。知りませんでした。
「流されない」生き方――“人生の答え”は、いくつも、いくつもある! 三笠書房 電子書籍
- 作者: 山?武也
- 出版社/メーカー: 三笠書房
- 発売日: 2013/04/16
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もちろん読んでません。もともと自己啓発本はほとんど読まない人間なので…。哲学とか心理学方面には関心がありますが、自己啓発の方法にしたって、そもそもは著者の価値観と方法に過ぎないんですし…。私にはほとんど参考になりません。
ホントに参考のために、と思って読んだ断捨離関係の本は、リフォーム前の片づけの際に真っ先に処分してしまったし… (^_^;)
時々読むのはスピリチュアル関係の本かな…。それにしても自分の中でかなりふるいにかけてしまっているので、のちのちまで心に残る本というのは少ないのですよね。残ったものだけが本物というか、自分には価値があるものと思っています。大抵は優れたターミナルケアやグリーフケアにもなっていたりするものです。
私がいつからこういう流されない人間になったのか?…実はそれもよくわかりません。初めての集団生活、つまり幼稚園で他の子達の中に入った途端にもう「浮いてるな」ってわかったし… (^_^;)
生まれつきこういうタイプだった可能性もありますね。何度も死にそうな思いをしましたが、それゆえに「なにかに守られている」実感と「あの世とこの世の距離の近さ」が納得できて、守ってくれているのは現実の家族であり、もっと広い、それこそ病院の中のスタッフの人たちや、友達や友達のお母さんや、それと眼には見えないけど、なんとなく存在を感じる人たち(神様、なんていうたいそうなものではなくて、もっと身近な感覚)を感じていました。
だから一人でいても寂しくなかったし、存分に世界のことを知りたいと思ったし。「感謝する気持ち」というのも「守られている感じ」から自然派生しました。なにもかもが私という人間の基本になって、だから小学生になって、もっと多くのクラスメイトや先生とつきあうことになっても、わりとそれなりにおつきあいが出来ていました。低学年の時は学校もそれなりに楽しかったです。
小学校の上級生になって以降は、それなりにまわりとは友達付き合いしながらも本当にマイペース&マイウェイになってしまったので、教師と呼ばれる人たちとの相性は最悪だったかもしれません (ーー;) 特に女性の場合はね。素行不良とかそういうことは全然ないんですが、「なにを考えているのかわからないあんまり目立たない生徒」「成績は悪くないけど、つかみ所がない」って感じで。小学5、6年の頃には思い切り「協調性がない」と書かれてました (^_^;)
大人になってもそれなりにおつきあい程度はこなせるけど、でも自分がやりたいことが最優先なので、「おつきあい」は本当に最低限しかしませんでした。会社といっても規模によっては親族が経営のメインなんてこともありますが、そういうところは余計なことに関心を持たない私みたいな人間の方が都合が良かったみたいです。個人医院とかもそうですね。事細かく知りたがるような人だと使いづらいと思います。
もうちょっと規模が大きくなると、しようがないなあ、というおつきあいがありますが、それも忘年会限定にしていましたし…。それが駄目なところはそもそも私が会社勤めに向いていないんだと思っていました。
私にとってはすべてが自然体ですが、こういうことは孤独を恐れると出来ないんですよね。そもそも孤独であることに自分らしさを認めていたから出来ることだったかなあ、と思います。子供の頃から孤独力は高かったと思います。
それでも人間嫌いじゃないんですね。その部分で人と関わるのが楽しいし、学べることも多いと思っています。まず先に「個」としての「自分」があって、そこから始まるから流されることもないんじゃないかな、と思っています。