お互いさま おかげさま ありがとう

両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

生涯持ち続ける「人生のテーマ」みたいなのってきっとあるよね

 

気温の上昇につられて、体温も上昇する日々ですが、さすがに37.4〜37.5度くらいになると、しんどくて横になる時間が増えます。ちょっとマシになったらもう夜 (ーー;)

 

自律神経の熱に解熱剤は効かないので、仕方がないですし、しばらくろくなこと出来ない日々が続くと思います。ご容赦ください (ーー;) 仕事もしたいけど、なんかこの時期はしんどさの方が先に立ってね…。

 

 

 

「症状」としての「衝動」はプラス、マイナス両面に働く


以前嘆いていたこの件につきまして、同じ双極性障害の患者さんがメインのSNSでお聞きしてみました。似たような感じで経験された方はないかどうか?と。

 

haruusagi-kyo.hateblo.jp

 

そうしましたら、やはり似たような方はいらっしゃいました。ジャンルは違いますが、こういうのはどうも双極性障害でも2型の方に多いらしい「衝動性」が関わっているようです。

 

ものすごく高い金額の買物とかなら気付きやすいし、セーブもしやすいんですが、ものすごく微妙なところなんで、かえってコントロールが難しいかも…という話になりました。

 

もものすごい微妙さを感じます。この「衝動性」が悪い方向にいくと、突然に自殺しやすくなったりするので、怖いんですよね。そもそも薬で押さえることが可能かというと、これまた微妙な感じで… (ーー;)

 

でも私改めて考えました。仮に、この衝動をなにかの形で抑えてしまうと、今度は創作意欲そのものに影響が強く出て、なにをする気もなくなってしまったら…これほど怖いことはありません。少なくとも私にとっては死ぬよりも怖いです。

 

この衝動を抑えるのはもしかしたら正解じゃないかもしれません。お金に換えられない生き甲斐みたいなものに結びついている可能性はあるよなあ、と自分でも思います。

 

だとしたら、無理に抑えるのはかなりまずいんじゃないかな?とも…。困っても無理にセーブしないほうがいいのかもしれないなあ、と… (ーー;) 

 

作業療法士さんに「いつでもなにかをやっている」という印象があるくらいだから、私にはそれが自然なのかもしれませんが…。悩むなあ… (ーー;)

 


人生が作品に及ぼした影響について

 

ブックマークのコメントでそのような質問をいただきましたので、改めて考えてみました (^_^;)

 

ただし、子供時代の作品は親が処分してしまったので、私が覚えている範囲内の話になりますが…。

 

幼稚園時代、クラスでもっとも「お絵描き帳」を描き潰すのが早いのは私でした。もちろんクレヨンも。そのつど買ってもらっていたので、家で書く用紙は父が描いた図面を青焼きしたものの裏側を適当なサイズに切って、母が糸で綴じてくれたものです。それでもすごく嬉しかった記憶があります。

 

そのお絵描き帳に一番多く描いていたのは「お姫さま」です。ドレスはもちろん、着物のお姫さまと、あと鹿や鳥やうさぎなどの動物ですね。これらのモチーフは現在の絵にもよく出てくるので、私の原点は本当に変わってないなあ、と時分でも思います。

 

小学生の時はノートに鉛筆でホラーっぽい漫画を描いていたような気がします。中学生になってからはクラスの子をモデルにした日記漫画を。このころ、カムイ伝カムイ外伝の影響を受けて時代物とか歴史物に興味が湧いて、以来、時代考証をきちんとした絵にこだわるようになりました。

 

高校の時の漫研で初めてペンを持つ。私のペンデビューは遅かったのですね。春休みか何かに16ページの漫画を描きかけて挫折。愛情のあるキャラでないと描けないことも思い知りました。

 

で、病気療養期間は同じ趣味の友達に複数出会った時で、絵柄的には萩尾望都さんの模写をしていて、影響も受けました。好きだったからなかなか抜けられず (ーー;) 

 

トーリーは中世ヨーロッパあたりをモデルにしたようなファンタジーとか描いてましたが、宗教観にぶつかって、それも挫折。なんとなく理解しやすい日本の古代に戻ってきました。

 

で、古代日本を舞台にした漫画は歴史なのか事実なのかわからない時代の曖昧さのなかで、かえって自由に想像出来たこともあって(当時は田辺聖子さんの「隼別王子の叛乱」の影響が大きくて)とりわけ記紀のなかでも古事記の人物造形に心惹かれたために、結構妄想していました。

 

その頃から、「自分の運命にただ従うだけなら悲劇にしか終わらないけど、少ない選択肢の中から自分の道を自分で選んで歩むから、それは傍からは悲劇にしか見えないかもしれないけど、断じて当人には悲劇ではない」という価値観がいままで全然変わっていないのに自分で驚きます。

 

三つ子の魂そのままを地で行くタイプかもしれませんね (^_^;) 中心にあるものは驚くほど変わってないです。何年、何十年経ってもやっぱり「私は私でしかない」と、過去の原稿や同人誌を振り返るたびに再確認します。

 

 

人それぞれに「人生のテーマ」みたいなのがあるんじゃないかな


人生のテーマを悟るのが早かったのかも…。…といっても幼稚園の時に「自分は結婚しないと思う」と気付くのも早すぎる気はしますが、でも間違っていなかったので、そのあたりで、いろいろ気付いていたのかもしれません。

 

そういうのって、しっかりした「芯」になって、成長しても経験を重ねてもゆるぎないものになって、さらにそのまわりを豊かに強く支えるものになっているような気がします。思うと不思議ですけど。

 

とにかく、「自分が歩む道は(たとえ選択肢の幅が狭くても)自分で決める」「自分で決めて実行してきたことだからどういう結果になっても後悔しない」「そうしたら、悲劇のヒロインにならずにすむし、最期にハッピーエンドで〆られると思う」というのが子供のころから、現在の至るまで変化しない人生のテーマですね (^_^;)

 

一度ならずも挫折したことでそれが増強されたんだと思います。

 

転ばないと、痛みもわからないし、転んでからでないと立ち上がる大変さもわからないし。だからいろいろとアクシデントも予想不可能な人生のあれこれもありますが、私はどこかで「そうか、そうくるか」という感じで受け止めているところがあります。

 

昨日の若松英輔さんの本の中にも「真剣に生きている人にはこの世は生きにくい」というような言葉があったと思う(すみません、付箋を忘れて見つけられない)けど、そうか、それでいいんだ、と妙に腑に落ちたので、この先も自分の生き辛さを嘆かなくなるような気がしています。

 

辛さの中でも少しずつ余裕を見つけられるようになっていくあたり、経験から学んでこれたことなのかもしれません。

 

 


↓ 20年くらい前のアナログモノクロ原稿。最初の頃、作品が少なかったので、ちょびっと色つけてサイトに掲載していました。でもこのペン画の線はいまはもう描けないと思います。眼も手も無理っぽい… (T-T)

 

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彼らはいまでも私の中にいます (^_^)

 

 

 

 

 

 

 

人を生かすための言葉を使えるようになりたい

 

夏はダウンする時間が増えます(ーー;)

 

気温が上昇してくると、私も変温動物ですから、体温が上昇して、ずっと微熱状態になります。しばらく「風邪ではないのどの痛み」とか続いていたので、現在も感じている背中の痛みを加えると、本当に慢性疲労症候群っぽい感じになります。ただ、熱は冬場にはましなことと、始終横になりたいほどのしんどさは寒い時期にはまだましなんですよね〜。

 

でも昨日は午前中も午後も寝てました。とにかくしんどくて、横になってうたた寝しても、夜もちゃんと眠れるので、やっぱり疲労感が強いのかもしれません。ずっと寝てられたら楽かもしれませんが…。

 

ああ、でもさすがに今日はご飯作る気力もないです(ーー;)

 

お絵描き完成して、サイトも更新したら、それで限界だったみたいです。このつぶやきを見て、大切なものを守るためには並ならぬ覚悟が必要だと思いましたが…。自分はそれをやってきた自負もありますね(^_^;)

 

 

 

 

究極の選択を迫られている人の話


非常に重い話題であれなんですが、昨夜たまたま流れてきたつぶやきを見て、気になった方があります。全然知らない人で、縁もゆかりもない方なんですが…。

 

かいつまんで書くと、その方は子供の頃からいくつもの難病と言われる病気に罹患して、でも怠けていると思われるのが嫌で、必死に頑張って、余計に病状を悪化させてしまったらしいです。主に自己免疫系の疾患が多いような感じです。

 

で、現在はほぼ寝たきりに近いそうで、健康でもなく、お金もないから、近いうちに安楽死の選択のためにスイスに行く、と家族や親しい友人に打ち明けたそうです。その人の苦痛をご存知の家族はあえて反対されなかったみたいで、ただ親友は「ちょっと待って、最後に働きかけはしてみるから諦めないで」と言われたそうです。

 

その親友の意図は、彼女の病気や生活をメディアに訴えて、そこからなんらかの治療や生活の足がかりを得たいというものでした。

 

でもご本人はそういうことで公になってしまうと、余計に生きていけなくなりそうだと躊躇されています。病気の診断がつくまでに20年以上かかって、そのあいだにきっと言われなき中傷などもあったと思います。

 

だから公表されるのも戸惑うし…。でも「死にたいわけじゃない」「いつも蛇口を探してきた」と書いておられるのですね。後ろ向きとは思えないし、死にたいわけでもない人が、あえて安楽死を選ばないといけないことっていうのはどうなんだろう?と考えてしまうと、昨夜からずっとそれが頭を離れません。

 

本当に知らない人のことではありますが、こういう風に不幸な方向にしか流れないのは悔しいなあ、と思ってしまいました。なにかが出来るわけでもありませんが、どこかに希望が残って欲しいとは願っています。

 

公表することの良し悪しはいままでの日本の例でもいい反応ばかりじゃないのはわかりますし…。本当に究極の選択になるでしょうけど…。

 


…すみません。自分ではどうしようもないんだけど、どうしても気になってしまうことはやめられない私でした。

 

「他人のことが気になるのは暇だからだ」という声もどこかにあったけど、うわさ話じゃあるまいし、生命がかかっている問題に無関心でいられないのは当然だと思います。

 

 

 

「言葉(コトバ)」が持つ力

 

いま読んでいる若松英輔さんの本。

 

 

言葉の贈り物

言葉の贈り物

 

 

「言葉」について、「言葉の持つ力について」書かれた本です。まだ途中ですが、「これは」と思う文章にたくさん出会いました。

 

人生の師は、しばしば試練を伴って私たちの前に顕れる。むしろ、そうした人生の問いを伴って顕現する者のみが、師と呼ぶにふさわしいのかもしれない。全身を睹して向き合うことを求めてくる。そうした人生の問いは、次第に生きる意味へと変じていく。それを精神科医神谷美恵子(1914〜1979)は『生きがい』と呼んだ。

 

 

生きがいをうしなったひとに対して新しい生存目標をもたらしてくれるものは、何にせよ、だれにせよ、天来の使者のようなものである。

 

 

英語では成功をsuccessという。また動詞となって「成功する」となるとsucceedになる。この言葉は、何かを成し遂げることだけでなくある事柄が持続しているさまを意味する。言葉には、長い年月をかけて培われた民衆の叡智が生きている。成功とは結果ではなく、大切な何かを継続的になしつつある状態を指すというのだろう。

 

 

 

いつからか「成功」は、多くの金銭を手にすることになった。(中略)

 

お金が直接的に介在しない仕事はいくらでもある、ボランティアや非営利団体での活動などもそうだが、それだけではない。仕事とは文字どおり「事」に仕えることだから、人生の避けがたい何かに直面しそれを生き抜こうとする者たちは皆、働き、「仕事」をしている。たとえば、病を背負ったとき人は、その試練を生きることが誇り高き仕事になる。

 

 

 

…あんまり素晴らしいので、まるまる引用してしまいました(^_^;) 文字も大きく、分厚くなく、でも珠玉の言葉がぎっしり詰まった本です。いつまでも手元に置きたい一冊になりました(^_^;)

 

 

 

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古きを尋ねていまの自分を知るということ

 

好奇心うずうず (^_^;)

 

昨日なんとなくTwitterで見かけたのをやってみました。軽い診断ですね。



cupe.site

 

あなたの個性は好奇心!

あなたは頑固で自発的な人。疑念も柔軟な態度で対応し、決して額面通りでは受け付けないタイプ。 系統的にそして、分析的に考えることができ、あなたの知性は平均をかなり超えています。几帳面で他人が見過ごしてしまうことも気づくことができ、効率のよいデータ整理もお手の物。何よりも、謙虚であり、寛大です。決して人を見下すこともありません。そんなあなたは好奇心旺盛の学習者です。

 

好奇心、といえば、こういう診断をやりたくなるのも好奇心なのかな?と思いました。

 

 


自分の脳と心が一番の興味の対象


実は私、自分にとって最大の好奇心が疼くのは「自分の脳」なんです。それと「自分の心」もそうね。どれだけ自分が好きやねん?と言われそうですが、そう、基本的に私は自分のこと好きですよ。

 

どうやら今はもうすっかり脳の回路がこういうポジティブ路線に切り替わってしまってるみたいだから、答がでない悩み方をしないような気がします。そのかわりに、「私の脳はどうしてこういう働き方をするんだろう?」とか「どうしてこんな反応の仕方をするんだろう?」とか、脳にも心にも本当に興味津々です (^_^;)

 

これって「自分の脳」や「心」もどこか客観的に見ているってことじゃないかと思います。距離が作れるんですね。どこか冷静に分析するのがすごく楽しい。脳科学者なんかだったら、自分で自分の脳を解剖してみたい(無理だけど)くらいです。

 

だって、自分はいままでの経験を全部知ってるじゃないですか。忘れてることもあるけど。それらの経験がどういうふうに影響を及ぼして、どういう風に変化してきたか、すごく興味あるなあ…。

 

もしも脳科学でわかることがあれば、他の悩んでいる患者さんたちの役に立つかもしれないし…。それがあるから、前からずっと脳バンクにも興味があるんですよね。

 

興味のあまりにこの本買ってしまいました。手もとにあればすぐには無理でもいつか読めるだろうし…。

 

 

脳科学は人格を変えられるか?

脳科学は人格を変えられるか?

 

 

 

この本、新刊のハードカバーなのに、Kindle本よりも安く、定価の半分近い価格になっている…。なぜ…?? ま、お買い得な気がしますよね。この値段は「読んでみて」と言われてるんだと解釈しました (^_^;)

 

 


昨日振り返ってみたこと

 


振り返ると、私の脳の回路がすっかり入れ替わるほどの「何か」があったとすれば、それはやはり10代後半の、具体的には身体的なダメージも大きかった、17〜19歳前後のことではないかと思われます。なにしろはっきり記憶がないくらいですから…。

 

それでいて、魂というか、意識が身体を離れて肉体の数メートル上空にあった、という感覚は覚えています。ああいうのを離人症っていうのかな?とも思ったり…。家族も気付かないうちに私の内部ではかなりの変化が起きていたみたいです。

 

それでも10代後半というと、まだまだ脳みそが柔らかく、可塑性に富んでいただろうな、とは推測されますし、その推測もあまり間違いではないような気がします。

 

まあ、明らかに挫折、ですよね。先の可能性が一旦閉ざされた状態になったということは…。それで脳の回路が生き残りをかけて変わっていったような気もします。自分の将来と価値観と病気の辛さともろもろ全部を賭けて悩みました。正直、その段階でよく生きてたなあ、とは思いますが。

 

だから私にとってはその変化もものすごく自然なことでしたが、大人になってからでもあり得るな、とは思います。

 

うん。こちらが駄目ならあちらはどうだろう?という具体的な別の可能性に活路を見いだすようになったのはそれ以来じゃないかなあ、と思います。

 

 

 

多分あの時、何かが死んだと思う

 


その後はわりと「ひとつが駄目になっても別の道があるわ」、という視点が確実に出来ていて、それから徐々にポジティブ思考になっていったと思われます。きっと10代後半のあの時に私の中のかなりの部分が一度死んだんじゃないかなあ。そこから再構築されていって今の私がいる気がします。

 

それ以降は思春期のほとんどを共に過ごした「自己嫌悪」という奴からも解き放たれましたしね。以後はほとんど自己嫌悪や自己否定の迷路には落ちていません。だからかなり双極性障害という病気のこともいくらかの距離を置いて見られるようになったんじゃないかと思います。いい意味でポジティブなところに助けられている気がします。

 

あんなふうな形で生命賭けで得るものもあるんですね。

 

とても順調に人生を歩んでいたら、いまのこの私はいないと思います。だからあの時の苦悩やら葛藤やらが無駄なく生かされていることで、やはり今の人生に後悔はないです。記憶をなくすほど悩んだ甲斐があったと思う。だから現在ポジティブ思考が出来るのは、あの時一旦死んだ精神の一部のおかげかもしれません。だから過去の自分にも感謝。

 

あの時、生きていて本当によかった、と思います。それでなければ、いまの幸福感も得られないままだったよね。ただ「生きてた」ことのご褒美みたいな気がしなくもありませんね (^_^;)

 

 

 

 

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