お互いさま おかげさま ありがとう

両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

運命と神仏について考えた

 

私はあまり薬頼みにしていないかも

 

Twitterのトレンドにある抗うつ薬、私は最初のトフラニールテトラミド(もそうだっけ?)とパキシルしか知りません。パキシルで手が震えるのを必死で止めた左だけ。字はいまだに下手です。でもパニックにはそれなりの効果があったと思います。双極になってからはリーマスだけですね。最低限のベストバランス?

 

 

自分の症状を言語化する、自分の気持ちを言語化する。周りの状況を言語化する。ブログという場所でこれまで20年続けてきたことが自分の一番の薬になっている気がする。メタ認知もセルフカウンセリングも自然に出来るようになった。「自然に」がコツですね。副作用もないし。

 

あとは言語化を続けるだけです。ただ、この継続がなかなか難しいらしいですが。書くことには確かな効用があります(^^)

 

私も自分のサイトの3行日記から始めました。こんなに続くと思わなかったけど(^^;)振り返ると病気でも豊かな人生の足跡がありました(^^)

 

 

何気なく地元の占い師さんの無料占いをやったら「あなたはご先祖からたくさんの愛を預かって、それを多くの人に配るために来ました」とのこと。有料で聞きたくも、遠からぬ場所ならお会いしてみたくもあるな(^_^;)具体的に知りたいかも(^_^;)

 

 

昔の絵を見返すよりも、昔の文章(フィクション)を読み返す方が圧倒的に恥ずかしい。当時は自分がキャラクターたちに憑依していた感がある。だから勝手に意外な方向に展開したりするスリルは半端なかったです(^^;) 「え!そうだったの??」というような展開になったりとか。やっぱり軽躁の勢いはあったよね。

 

私の軽躁は外には向かわず内に向かって創作のために働いたから、あまり他の人に迷惑かけなくてよかった。まあ反動で寝込んだりしましたが、物語世界で遊ぶのは至福でした(^^;)

 

このへんの絵はまだ精神科を受診し始めたころじゃないかと思います。それまでの習慣もあったから、結構描き続けてたな。

 

 

 

小説やエッセイ、複雑じゃない専門書は読めるのに、Googleのメールの内容はまったく理解不能。うつじゃないときもそう。翻訳文のほうがはるかに読みやすい。この精神疾患の患者泣かせのメールの文章をなんとかして欲しいな。まえからお願いしてるんだけどな。こういう障害にもご理解をお願いします。

 

今回のうつはものすごいタイプミスを生みだしています。我ながら相当酷いです。本来なら長文を書くべきではないと思うんですが……。こういう症状もあるみたいです。

 

弟担当の作業療法士さんに短冊を頼まれた。考えたけど「自民党政権が早くなくなりなすように」一般市民が一人でも多く幸せになるように。それしか浮かびませんでした(-_-;) 夢がないけど切実な願い。

 

 

 

 

 

見えない神仏

 

 

 

昨日、訪問看護師のUさん(男性)と話し込んでしまったお話。もしかしたら京都だからあり得る話しかもしれませんが、全国でもこういうことはあり得るかもしれません。うちは代々やってるから特に不思議とも思いませんでしたが、Uさんの奥様のご実家も同じようなおうちだったみたいです。

 

私の母の実家では、子供が生まれたら役所に届けるまでに、いくつかの命名の候補を持ってあるお寺に行きます。菩提寺ではないんですが、昔からそこのご住職が占いと言うかそういうものをよくされるということで。私が生まれた時も父がいくつか候補を持って見てもらいに行きました。

 

で、「恭子」に決まって、私の母子手帳の余白に父の文字で「いかにも恋愛結婚のものが考えそうな名前だと言われた」と書いてあります(^^;)

 

この慣習は弟が生まれた時も、甥や姪が生まれた時にも受け継がれました。「なんで?」と聞くと母が「運が悪い時に名前のせいやと思わんでもええようにや(^^)」とのことでした。心配に対する予防的な措置かな??縁起担ぎの意味合いも大きいと思います。ポジティブ暗示行動版というか(^_^;)

 

私が3年半前に引っ越しがスムーズに行くようにご祈祷をお願いしに行ったのもこのお寺です。ご本尊は不動明王ですね。若い」ご住職の真言が大変美しく、慰撫するような波動があって、涙が流れました。別に菩提寺でも観光寺院でもないんですが、口コミで拡がったのかな?と思います。

 

まあ、名付けについては親から子供への最初のプレゼントですから。

 

でも私の名付けの際にご住職は「この子は親との縁が長いな」とおっしゃったそうです。まあ、結果的に両親を介護して看取ったから実際に長かったよね。いまもなんとなく続いている気もするし(^^;)

 

 

ご加護をいただいたのか、無事に引っ越しも出来ましたし。

 

 

 



 

複雑な難転

 

 

さて、Uさん。多分全然別のお寺だと思います。でもご本尊はやはりお不動さんらしいです。

 

子供が生まれたら、まず姓名判断というのも同じだとか。そのへんは京都的な慣習なのかなあ?(^^;) 結婚すると言って相談すれば「問題ないでしょう(^^)」と言われたり。

 

で、Uさんのご家族は何度か引っ越しをされてます。家が手狭になったので一軒家に引っ越したいという話で、最初に気に入った家はなぜか近くに墓地があって。それは気になるからご住職に見てもらったら「墓地は問題ないです」と言われて、いざ現地で拝んでいただいたら「あかんわ!ここは子供を持って行かれる。やめとき」と止められたそうです。だからUさんは別の土地の別の家に引っ越されたんですね。

 

あとでわかったことですが、最初の希望の家には子供連れのご家族が入居されたとか。そこの小学生くらいの子供が近所で交通事故に遭って亡くなられたそうです。これを聞いたUさんは鳥肌が立ったそうです。そういうことかと思いますよね。なんかしらそういう符牒が合うことがあったりするんだよね。

 

そこの家はいまは誰も住まない空き家になっているとか。ご住職もご高齢で既に亡くなられて、息子さんの代になっていて、息子さんは「私はそういう能力はないんですわ」ともう鑑定はされていないそうです。

 

こういう話、京都ではあんまり珍しくないです。やはり古い都だからかもしれません。でもよく似た体験が出会うのも面白いなあ、と思います。

 

 

 

 

これってわかるな

 

 

 

生活の中で見えない存在に感謝するのはこころにゆとりがないと出来ないことだなと思った。うちの家系が代々そういうゆとりを持っていてよかったと思う。経済的な話ではなくて、あくまでも心のゆとりの話です。誰のためでもええんです。手を合わせるのも無心になる行為ですし(^^) 自己との対話でもありますね。

 

神仏に想いを馳せると、自分に繋がるご先祖のことを思うし、さらに未来の子孫の幸福も願うし、とてつもなく意識が広がるから手を合わせる行為がとても自然で好きです(^^) 自分という存在は単独でここにあるのではなくて、遥かに血縁につながる先祖や子孫に守られているし、多くの目には見えない存在にも守られているし。それってとてつもなくありがたいことだなあ、と思えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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