鶉鳴くなり深草の里
ちょうどこの記事が流れてきたので、いろいろ触発されて思いだしたことを書いておこうと思います。
夕されば 野辺の秋風身にしみて うづら鳴くなり深草の里
深草や 竹のは山の夕ぎりに 人こそ見えね鶉なくなり 藤原家隆
竹三本 わづかにたてり深草や 清きひじりのおくつきどころ 印東昌綱
平安の昔には竹林が多く、鶉が鳴く静かな隠棲の地だったと思われます。
小野小町に百夜通った深草の少将もゆかりの人かな。
近代は軍事の場所
私が去年まで住んでいた深草の地は近代には軍が使っていました。
結構広い練兵場があって、うちの住所あたりは地図で確認していないけど、その端っこかちょっと外だったようです。母の証言では田んぼだったそうですが。
実際にあちこちに当時の地名が残っています。第三軍道とか師団街道とかのね。
で、戦争中、中学生だった父はなにか手伝いに来て(学徒動員の一環だと思われます)なぜか「練兵場でグライダーで飛んだ」とか言ってました。飛行機好きな父だから嬉しかったんでしょう。
小学生だった母の実家は西側の竹田街道(現在の国道24号線沿い)にありました。夏場は行軍が行われるんだけど、熱中症で兵隊さんがばたばた倒れたんだそうです。その人たちを介抱して回復されるまで、家で看ていたんだとか。
そういう体験記憶しかない感じです。
やがて食料に乏しい情勢になりますが、祖母の実家が米どころ滋賀県なので、おじさんのところにもらいに行って食料をいろいろもらってきたから父は随分助かったようです。
母は能登半島に祖母と叔父と縁故疎開したけど、日本海で機雷が爆発するし、「死ぬならみんなで一緒に死のうか」と京都に帰ってきたそうです。
まあ、あの夏に京都に原爆が落ちていたら、両親はいないし、いまの私も当然いません。
ただひとりの兄がニューギニアで戦死して、遺骨も見つからなかったので、父はアンチ昭和天皇だったなあ。無理ないと思いますが。
私が幼いころにお世話になっていた日赤の小児科の先生が夜は自宅で診察をされていて、そこへ行くのに鴨川の橋を渡すると傷痍軍人さんが物ごいをされていました。あのころの福祉って実際はどうだったんだろうね??
あと母が言っていたのは学校のプールの授業で、泳げないと頭から水に浸けられて泳げるようになるまで話してもらえないという、ほぼ虐待に近い授業があったようです。
なんだかいろいろ狂気なイメージ。で、まあ30年ほど前に私の枕元に兵隊さんが立ったりするわけだね。まあ、練兵場跡だしね、と納得はしてました。でもあの兵隊さん、ちゃんと成仏できているといいなあ、と思います。
SNSでうかつな話題に触れるとネトウヨに絡まれるからうっとおしいです。短い文章でも決めつけてくるから。よっぽど暇なんやなあ、と思いつつあっさりブロックしてますが。
子供時代の両親にどういう思想があったのかなんてどうでもいいやん。子供が戦争始めるわけでなし。私が知ることがすべてだと思うから。
戦争について当たり前に知りたい、理解したい、見直したいというだけでwgip だなんだのと横槍いれる人たちがいるんだろうね?逆に真実に迫られると困るんじゃないかと思ってしまう。自虐史観とかそういうのではないのに、故人の思い出にまで口を挟まないで欲しい。何様ですか(-_-;)
— 藤本恭子/双極性2型障害と共生中 (@haruusagi_kyo) 2020年8月15日
↑こういうのがネトウヨ(-_-;) オリジナリティがない人たち。
昔母が「ああいう人ら(ネットじゃなくてリアルの右翼)はヤクザよりタチが悪いから関わったらあかん」と言ってたなあ。そうかもね。
南の朱雀
両親はその後はいまでも最先端みたいな思想をしていましたので、戦争の影響ってそういう風にでたりするのかな?と思います。私はその影響を受けてますね。義理人情も大事にするリベラル?みたいな?
いまでもタケノコが採れる深草の土地。両親が眠っている墓地もここにあります。
お稲荷さんの眷族もかつては普通にいたんだと思います。
なんやかんやでひっそりと重ねる歳を思います。
いまはこの朱雀の土地で (^_^)
どこに行っても歴史と暮らすのは楽しいです (^_^)
明日は受診です。
月曜日の予想が40度とかって、勘弁してください(>_<) 京都は酷暑。 pic.twitter.com/ZpH5bKetR2
— 藤本恭子/双極性2型障害と共生中 (@haruusagi_kyo) 2020年8月15日
観光客のみなさん、悪いことは言いません。昼間はエアコンのある室内でのんびり過してください。さすがに40度は私も未経験。39度台はあるけど。
もう受診→直帰だなあ。
ここから思うに平安時代は小氷期だったんだろうな。冬に重ね着して火鉢抱えるくらい。寝殿造りは基本夏仕様らしいですし。