家族ではないけど…
昨日たまたまこんな記事を見つけました。
「看取り士」という仕事なのだそうです。
こういう仕事が存在するのは意外な気もしますが、それが現代なのかもしれません。
一読して、その仕事をする人たちがやっていることは、かつて私が父を看取った時に、なにも参考にするわけでもなく、ただ自然な気持ちの流れでやったことそのままでした。
抱き締める、手を握る、「大丈夫だよ」と話しかける。呼吸を合わせること…どれも自然な看取りの過程で自然に出来た行動でした。
詳細はこのあたりの記事に残していますけど…。
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記事の患者さんはまだお若い分だけ、哀しいと思いますが、でもお子さん達に充分に送られたのは幸せだったかもしれません。
ただね…。これが高齢の親と子供たちになると、もっとうんと複雑になると思います。なぜならば、この世の中にはうまくいってない親子関係の方がうんとずっと多いから…。
うちは幸いにうまくいってたから、自然に私もやるべきことがわかりましたが、これがわだかまりが大きな親子で、日頃から距離があったりすると難しいだろうな、と思います。
だからこういう第三者の仕事が必要になるのかもしれません。きっとこれから需要がある仕事なんだろうな。出来ればボランティアでやりたいくらいですが、きっと同調し過ぎて身体がついていけなくなりそうです (ーー;)
私と両親の場合
父の時は本当に在宅で迎えることが出来ましたが、母の場合は手が足りず、自分も歳を取ってるし、かなわないだろうと思っていますが、もしも施設で看取ることが出来るならば、最期は私につかせて欲しいとお願いしてあります。私だから出来ること、私でないと出来ないことはきっちりやりたいですし…。
こういう思いと死生観にはずっと繋がりがあって、死者を身近に感じながら、慰霊しつつ、遺族も徐々に癒されていく過程と時間はやっぱり必要で、そのために必要なことはあるんだよね、と私も自分の経験から思っています。別に宗教的じゃなくてもいいんです。世間で言われている霊的な行動でなくてもいいんです。
ただ、自分が納得出来る形でやるべきことはあるので、それが果たされると死者の魂はおのずと天に昇る感じかな、と思っています。遺族が立ち直るためにも必要なことってあるよね、と私も思っています。
で、それを自然な行動に移したのが父の看取りだったんですね。やるべきことをきっちり果たせて幸せだと思いました。そして確かに死後何時間か経っても父の背中は暖かかったです。
いまは年月が経った分だけ離れたところにいますけど、思い出せば身近に感じます。
家族はこの世では仮の家族だとも言われていますが、私はこの両親のところでなければきっと生まれてこなかったとおもいます。肉体があってもなくても深い縁を感じます。
そういう家族のもとに来れて本当によかったと思います。私への祝福。そして両親への祝福。
持って生まれてきた記憶はきっと正しいと思います。