15年分の疲れを感じる
昨日、作業療法士さんに「介護に関わってからの15年分くらい疲れた感じがします」と言ったら、「でも眠気はみなさん2週間ほどでましになっているみたいですよ」ということでしたので、気長に休養しないとダメかなあ、と思っています。
まだモニタを眺めているだけで瞼が重くなってくるので、目の疲労もありそうです(ーー;)
「描かない選択は描けないのと同じ」
こういうつぶやきが印象に残りました。
最近よく「お前くらいの作品、俺だって時間なくて描かないだけでホントは簡単に描けるんだぞ」みたいなメッセージをよく頂く。
— はっと @夜の美術館展2/16~ (@Pecalatta) 2018年1月14日
うちの旦那曰く。「でもそいつは結局描かないという選択をしたんだから、描けないのと同じ」
確かに本当、そうだね。気にすることはないんだね。
この旦那さんのご意見がめちゃくちゃ的を得ているなあ、と思ったのですね。
この方は絵についておっしゃっていますが、これって他のことでも当てはまると思います。
例えばブログ。「大の大人が長年ブログを続けること」について、あれこれいう人は多いけど、それならその人たちはいい年齢になるまで、ずーっとブログを続けてこれたのか?ということですね。それができてないであれこれいうのは説得力もなにもないですし。同じように長く自分のブログを続けてこれた人にだけわかるものもあると思うし、共通点に共感するものもあると思う。
でもそれだけの経緯がない人がなにを言おうと気にする必要はないってことですね。実際の行動に勝るものはない、ということが世の中には多いです。それが他人を納得させる要素にもなっていますし…。誰かに一目置かせるものにもなっていると思います。
まあ、経験したことがないことを記事にしようとしたところで、薄っぺらな内容のものにしかならないというのは自明の理ですけどね。
ある程度の年齢になると、自分が導き出した解答が現実の中で「間違っていなかった」という経験とともに「腑に落ちる」という深い理解に達することがちょくちょくあるようになりまして…。そういうのが人生の不思議かつ面白いところなんですが、それってやっぱり若いうちにはわからないものなんですよね。
だから自分が未経験のことに対してはいつまでも謙虚でいないと失礼にあたるなあ、というのがよくわかってきます。これは年齢に関係なく、若くても深い道を突き詰めて歩いておられるような方も存在するわけですし…。
毎日ウォーキング15年続けるとか、ランニング15年続けてるとか、毎年札所巡りを欠かさず15年続けてるとか、専門的な研究を15年続けてるとか、そういうこととわりと近いものがあると思います。
ブログを続けるという行為はささやかではありますが、でもそのささやかなことが続かない人が圧倒的に多いわけですし…。これはやはりちょっとしたことではないかと思ってます(^_^;)
絵の方はもっとずっと長く続いているわけですから、もう、誰もなにも言わない段階に入ってます(^_^;)
退屈する暇のない一生って幸せだなあ=作ること
もうひとつ、こういう投稿を読みました。
若いうちに人生の絶頂期を迎えてしまう、というのは、例えば肉体的なピークが若いときに来るアスリートならわかりますけど、頭脳はまだまだそんな年でもないのに勿体ないなあ、という例でしょうか…。
いや、私はきわめて真面目に読んでるんですが、アスリートでもないのに、若いうちにピークを迎えてしまう、という人生がピンとこないのですね。
クリエイターはまだこれからやん、と思ってしまう。「作る」ことにゴールはなく、エンドマークは生涯見えないかもしれませんが、でも「作る」幸福はなにものにも代え難いですね(^_^;)
やっぱり生きてる限りが勉強だろう、という実感もありますし…。「深い理解に到達するまでの苦闘とか悩みとか、そういうものもすべてが愛おしく感じるくらいの人生があると幸せだなあ」と思っています。
もちろん今でも結構幸せですが、「自分の精神が死ぬまで成長するのを楽しみにしていたい」という幸せもあるのかなあ、と。…そう思うと一生ご隠居生活とかはできそうもないですね(^_^;)
プラモデル初体験(だったりする)
義経の太刀、ものすごくのろのろ作っていて、やっとここまで出来ました。
赤い紐を巻きつける工程が一番大変かもしれません…(ーー;)
でもあんまり面白くなかったです。接着剤がいっぱい余ってるから、もう一つくらいなにかを作ってもいいけど…。こうやって作ると確かに構造がよくわかるので、絵に描きやすいと思いました。
でもお城とか描く予定はないんですよね。考えてしまうなあ。