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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

語学の才能は当面遺伝していないようです

昨日もほとんど寝てばかりいたような気がするんですが…。やっぱりしんどいからそうなってしまう。全身がむくんでいるように感じます。弟も同様にしんどいと言ってますが… (ーー;)

 

ついでに筆文字は全然面白くないし (ーー;) 余計にやる気が出なくて、これもマスターするのは無理かも…と諦めかけているところです。頭の中にある理想に手がついてこないのですね。他の方の作品もイメージに合うのが見つからないし。自分で書くのが早いと思ったけど、やっぱり全然そうじゃないですね… (*-д-)-з

 

 


とても私的な昔話です。

 

昨夜読んでいた本にサイモン&ガーファンクルの歌が出てきて、ふと思い出しました。
私が生まれて初めて買ったLPレコードというか、アルバムっていうのが実はカーペンターズのベスト盤だったんですよね。私はあまり音楽に関心がある方じゃなかったから10代の後半だったと思いますが、当時よくラジオなどで耳にしたのと、カレンのとてもわかりやすい発音と歌い方が好きだったんだな。

 

それ以降、The Beatlesを始めとして、サイモン&ガーファンクルや日本のフォーク、ニューミュージックの方に流れていくんですが、そのあたりになると弟と協力してアルバムを集めてました。弟は当時学校の友達とフォークバンドをやってましたし。

(レコードとカセットテープの時代だよ。若い人には想像出来ないかも…)

 

 

 

それでさらに遡りますが、両親の青春時代の話です。昭和20年代ですかね。

 

母は学校時代、小学生の頃から非常に成績がよく、先生の評判も良く、毎年級長などをやっていたそうですが、高校進学の時に祖父が失業中で、家が貧乏だったので、高校進学は諦めようかと思っていたようです。しかし、11歳上の伯父(今も92歳で健在です)「自分が煙草をやめるからしなちゃん(母の名前)を進学させてやってくれ」と言ってくれて、それで受験することが出来たんですね。

 

~~~~~~ ちなみに母は当時の教師に「僕も長いこと教師をやってきたけど、しなちゃんみたいな『ええ子』は見たことないわ。そのまま大人になったらどんなに素晴らしい人になるんやろう」と言わしめたことがあるようです。「ええ子」のわりに嫌味な子でなかったのがよかったなあ、と思います。(のちに甥っ子も小学校の担任の先生に同じことを言われたらしい。その時の先生に甥の現在をお知らせしたい願いもありますね (^_^;))~~~~~~~~~~

 

しかも合格発表の日は生徒会の仕事が忙しく、発表を見に行く暇がないなあ、と思っていたら、クラスメイトが「しなちゃん、あんた受かってたえ!」と知らせてくれてそれでおしまいだったようです (^_^;)

 

まあ、それで高校でもやっぱり生徒会にいたらしいので、そういうのが向いてる性格なんだなあ、と… (^_^;) 

 

で、高校時代はESSにいて、英語劇などもやっていたらしく、当時の夢は「通訳になること」だったらしい。

 

そのためには大学にも行きたかったけれど、やはり経済的な理由でそれ以上の進学は諦めざるを得なかったようです。クラスメイトの女性に母が「こうなりたい」と思っていたように通訳の仕事についた人がいらして、一度だけちょっとそれを羨ましそうに話していたことがありました。

 

終戦からまだいくらも経っていない時代で、当時の母の同級生、同窓生には医師や弁護士などの仕事に就いた人も多かったんですね。

 

 


父の方は、高校時代に結核になりました。こちらも11歳上の兄が戦死していて、父は一人息子みたいなものでしたので、特に祖母は必死になりまして、工面して、肉やチーズなど栄養価の高い食べものを買い集めて、父に体力をつけさせようと頑張ったようです。

 

その甲斐あって、なんとか病気も治癒しまして、1年休学したものの、学校にも戻りました。どうも推測するとその頃からかなあ、と思います。父は洋画にはまりました (^_^;) さらに進駐軍にも出入りして、洋画と実用性のある会話とで英語をマスターしていったようです。

 

祖父の仕事は板金職人でしたが、その手伝いで屋根に上ると、ネクタイを締めたサラリーマンが歩いていて、自分もサラリーマンになりたいと思ったそうです。で、なぜか専門は機械関係だったのに、経理学校にも行ったことがあるそうです。(なぜだ?経理は向いてないと思う)

 

 


そういう父と母が大きからぬ繊維機械の会社で出会います。
で、恋に落ちます。父は始業時間よりも早くに出社する人だったので、母もそれに合わせて早く出て、他に誰もいない設計室でハグしたりしていたとか。(うちの親ってそういうこと普通に話すんだよね… (^_^;))

 

で、当時母に好意を持っていらしたらしい社長の息子さんを振って父と結婚。二人とも一度も後悔していると言ったことがないので、本当に運命の出会いだったのでしょう (^_^;)

 

書きながら、ちょっとドラマみたいやな~、と思っている私。まだお見合い結婚が多かった時代です。こうしてみるとうちの両親はあまり日本的な慣習に捕らわれていないふしもありますね。少なくとも世間体とかもあんまり気にしていない。さすがに私の親だけあります (^_^;) わりとモダン??

 

 


こうしてみると「英語」とか「英会話」とかも話題になったんだろうな、と想像出来ます。父はずっと仕事でも英会話は役立っていたでしょうし、母は主婦業やパートでは役に経つ機会はなかったでしょうが、それはそれでよかったのかもしれません (ーー;)

 

で、謎が残ります。両親がわりと得意だったにしては、私も弟も英語はいまだに苦手なんですよね。素質よりも才能かなあ??子供の頃から生まれ育った土地の言語が問題かもしれませんが…。語学の才能が嫌にするほどないんです…(>_<)

赤点こそ取っていないけどね~。今もweb翻訳がなければ困るだろうしな。

 

「学生」を離れて何年経っても英語と数学の苦手意識はなくなりません。困ったものだと思います (ーー;)

 

 

 

サイモン&ガーファンクルで親の青春時代のエピソードまで連想してしまいました (^_^;)まあ、書き留めておくのも悪くないかな、と思います。なにかの記録として。こういう話、いっぱいあるんですよ。それだけ私は聞かされてるし。(うちって本当にオープンな家庭だなあ、と改めて思いましたが…)

 

あ、でも上京区に住んでいた時は官庁街だったので、母はずっと和服で暮らしていました。おばあちゃんも。街の雰囲気がそうだったみたいで…。その点伏見の方がくだけてますね。当時は(わりと今も)田舎だったしね (^_^;)

 

 

 

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