人生の虚無に陥る前に思い出したい人たちーーーー
母方の祖母のこと。
実は母方の祖母のことは私の記憶が曖昧で、はっきりした生年がわからなくなっています。父方の祖母よりはいくらか若かったですが。母が30歳の時の子供だから1904年くらいかな?
名前は「島(しま)」。京都市内の生まれですが、その当時の家は伏見ではなくて、もっと市の真ん中、建仁寺さんの近くだったとも聞いています。ひいおじいちゃんはまだ40代くらいの若さで糖尿で亡くなって、ひいおばあちゃんがその後、家や工場を切り盛りしていたそうです。
ひいおばあちゃんは私が3つくらいの時に亡くなったので、あまり記憶はありませんが、いかにも「京女」という感じの人で、うちに立ち寄った八百屋さんから、本当は1把で充分な菜っ葉を2把買ったり、「おぶでも飲んでおいきやす」とお茶を出すような人だったそうです。やんわりしているけど、やっぱり芯が強いタイプかもしれませんね。
工場では京都で初めてのモーターだとエンジンだかを扱っていたそうで、毎日見学に来られる人も多かったらしいです。あれですね、西陣織のジャガード織機の井上伊兵衛さんの血が生きてるみたいです。
で、祖母ですが、お嬢さんでした。当時の女学校(現在の京都女子大)に女中さんをお供にして通学していたそうです。当時でも女学校に通う人は珍しかったそうです。おそらく大正時代くらいですもんね。
上に姉がいました。姉妹二人だったのですね。ですので、婿養子を迎えます。それが祖父でした。祖父は初め、祖母の姉と結婚したのですが、子供一人を残して、姉は早逝します。それで祖母が改めて祖父と結婚することになりました。昔はありがちだった話です。ですからうちの母には腹違いの姉がいました。(90いくつで亡くなりましたが)
伏見の家に引っ越してきたのがいつか、正確にはわかりません。昭和9年の室戸台風の時は生まれたばかりの母を抱いて、祖母は押し入れに隠れていたそうです。(この家、戦争中に掘った防空壕まであるんですよね、床下に)
ともあれ工場は伯父が継ぎ、コンデンサ部品の製造などをしていました。ちいさな町工場の規模ですが、それでも景気がいい時はあったようです。母も家のローンがあったので、実家の工場でパートをしていました。伯父夫婦に一時期は母の姉や従業員の数もわりと多かった気がします。
祖母も働いていました。少し離れた場所に新しい家が出来たので、祖母はひと足早く工場を出て、家に帰って洗濯物を畳み、夕食を作ります。すでに80歳近い歳だったから大変だったと思うのですが。少しだけ時間がある時はうちに立ち寄って、お茶を飲みながらうちの祖母と母と世間話をして帰ります。わが家は祖母の家と工場とのちょうどあいだに位置していました。
二人の祖母は生まれ育った境遇がまるで違うにも関わらず、とても仲良しでした。よく連れ立って旅行にも行きましたし、二人で遊びにいったりもしていました。およそ喧嘩などしたことがありません。二人とも嫉み、嫉み、人の悪口とは無関係な人でした。不思議ではありますが、あの仲の良さを知っている私にはそれがとても自然なことに思えました。
おっとりしたお島さん、苦労してきたおたきさん。二人はお互いを尊重しあっていました。二人の祖母のあり方にも現在の私に通じるものがあるような気がします。
お島ばあちゃんにはよくお寺関係の場所にも連れて行ってもらいました。亀岡に住んでいた叔父の家や、お盆には陶器祭の五条坂から六道珍皇寺で迎え鐘を撞いて、お精霊(しょらい)さんをお迎えしてそのまま清水さんまで…とか。(母の実家は浄土宗です)
伯父や従兄妹たちが夏休みで旅行するというので、留守番のにぎやかしに泊まりに行ったことがあります。朝になってから小学生だった弟がやってきて、一緒に朝ご飯を食べて帰りました。なので、祖母の味というと、二人ともいまだにその時に食べた「じゃがいもの赤だし」を思い出すのです。
のんびりした性格の祖母は自分の体調の変化に気付くのも遅かったのですね。
どこかから出血している。でもどこからかわからない。膀胱炎かな?痔かな?とか言っていて。母が婦人科に連れていきました。そこで「紹介状を書くからすぐに大きな病院に行きなさい」と言われました。祖母は80歳。子宮頚がんでした。
それから放射線治療などが始まるのですが、いろいろそれゆえの作用もありますよね。ちょうど蜂窩織炎みたいにリンパ腺腫で足もむくんでいましたし、大腸からの出血もありました。
伯母が結構きつい人で、そういう状態に祖母に自宅のトイレを使わせるのを嫌がって、ポータブルトイレを利用。伯父がその管理をしていたりしました。
病気は一進一退で、老人ホームにも入りましたが、何度も入退院を繰り返しています。最終的には骨などにも転移して、4月の半ばに亡くなりました。やはり3、4年の闘病生活でした。
最期まで家族の縁の下の力持ちのような存在でした。
こちらのおばあちゃんもやはり好き嫌いを越えた大きな存在でした。