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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

いまはただ、ひたすらに懐かしき

このごろ、よくGoogleのストリービューで、自分が子供時代を過ごした土地を眺めています。もちろんほとんどの町並みも変遷しちゃって、変わらないのは社寺ばかりなんですが…。でもなぜだか昔が奇妙に懐かしく感じるこのごろです。

 

私が死ねば、他の誰の記憶の中にも残らないささやかなルーツの記憶、書いてみようかなあ、とふと思いました。ものすごい私的な内容ですが、興味をお持ちの方にだけお読みいただければ、と思います。

 

 

人生の虚無に陥る前に思い出したい人たちーーーー

 

まず、父方の祖母のこと。

 

名前は「たき」。明治30年(31年という話もあります。当時の戸籍ってわりといい加減だったらしく)、滋賀県の現在の栗東町に生まれました。農家ですね。

 

きょうだいは祖母を含めて4人、祖母は2番目で姉と妹、弟がいました。実母が早くに亡くなって、お父さんが再婚するんだけど、その際に前妻さんの娘はやりにくいだろうとのことで、今から考えるとひどい話ですが、祖母と妹は別々に奉公に出されました。祖母はまだ7歳でした。

 

幸いに奉公先のねえやさんが親切で優しい人で、「こんなに小さいのにかわいそうに」とよく面倒を見てくれたそうです。子守などをしていたようですが、当然学校にはほとんど通えませんでした。祖母の場合、1、2年行ったかどうかわかりませんね。とにかく苦労はしたようです。

 

芯が強いところとか、意外にきつい性格とか、体形とか歩き方とかアレルギー体質とかも、私は祖母の遺伝子をかなり受け継いでいます。

 

どうやって、成人し、どうやって祖父と結婚したのかはわかりません。そのあたりの話を聞いたことがありません。子供は2人、伯父と11歳年下の父(1930年生まれ)と二人。伯父はまだ若くしてニューギニアのホーランジャというところで戦死しました。以降は父が祖母にとっての一人息子のようなもので、祖母はひどく心配性になりました。

 

祖父は板金加工の仕事をしていたので、豊かとは決していえない生活でした。それでも父が社会人になって、家も購入したりして、いくらか楽になったと思います。

 

それ以前、うちの家族は上京区の御所の近くに住んでいました。

 

私を妊娠した時、母は祖母からいきなり「まだ早い、堕ろしなはれ」と言われて「なんてきつい人や」と思ったそうですが、「最初の子は絶対に生みます」と通したそうです。「生むんやったら元気な子にしてや」というのも、きついよね、おばあちゃん。

 

でも私が生まれてみたら、そういう言葉はどこへやら?祖母は大変私を可愛がってくれました。母が家で編み機での編み物の内職をしていたので、私のお守りはもっぱら祖母でした。「御所いこか?」と言われると決まって何冊も絵本を抱えてきたのが当時の私でした。

 

祖母は満足に小学校にも行っていないにも関わらず、いつのまにか文字を覚え、新聞などもよく読んでいました。祖母が読んでくれた絵本の内容を、間違いもそのままに私は覚え、その通りに読んでいたそうです。それと前後して百人一首の札が家に散らばっていた記憶があるので、それらの手がかりで私は文字を覚えたのでした。

 

祖母がどこで文字を覚えたのかはわかりませんが、学校にはいかなかったと思うので、やっぱり独学だと思います。本当にうちって代々独学の家なんだなあ… (ーー;)

 

私が病気になると一緒に具合が悪くなるほど心配してくれました。

 

祖父の死にともなって、「おばあちゃん、寂しいやろ?」というので、私が祖母と一緒に寝るようになったのが小学校の3年生くらいの時でした。以後、「はよ寝んかいな」とかやかましく言われながら、祖母が晩年入院するまで同じ部屋での起居が続きます。

 

心配性の祖母は父が海外に出張するたびに血圧を上げたり、腰痛を起こしたりして寝込みます。アレルギーのせいでうかつに薬が飲めないんですね。

 

父の出張が1、2ヶ月に及んでも祖母はほとんど寝込んでいます。「もうじき帰って来れるって」と報告するとやっと「やれやれ…」と安心して起きてきます。

 

晩年、祖母も弱って寝込むことが多かったのですが、母が甲斐甲斐しく世話をしてました。まだ介護保険などない時代です。縁側でシャンプーしたり、身体を拭いたり。

 

祖母は本当に感激して「あんたみたいなええ嫁さんもらってよかった。私は姪に知らせたい。そうでないと死んでも死にきれん」「そんなこと、おばあちゃんだけで喜んでくれてたらえんよ」と言う母。

 

それでも強引に姪にあたる人に来てもらえるように連絡を取ったその晩に異変が起きたのでした。

 

夜中に目を覚ますと、祖母が起きて電気をつけて布団カバーを外したり、仏壇に灯明を上げたりしています。「どうしたん?」と聞くと「誰かが抹香をこぼしてなあ。洗濯せんと…。それと誰かが表にかぼちゃを売りに来たはる」…と。血圧が上昇した影響か、血管性の認知症なのか、いきなりそういう幻覚が出現しました。

 

迂闊に薬が使えない人ですから、やはり入院が必要になります。その当時に出来たばかりの療養型に近い病院に祖母は入院し。亡くなるまでの4年ほどを過ごしました。

 

家族にとって、当時の日曜日の日課は祖母のお見舞いをしてからスーパーに買い出しにまわるコースでした。

 

私がまだ20代、小児科に勤務している時、9月の最初の秋風の日に祖母は病院で亡くなりました。家族全員で看取りました。誰の人生も大きなドラマだ、と私に痛感させてくれた祖母の死でした。

 

好きだとか嫌いだとか、そういうことを越えた存在だったなあ、と思います。

 

 

 

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