お互いさま おかげさま ありがとう

両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

この世界はレイヤーで構成されているのかもしれない

 

秋待つこころ

 

8月も終わりに近づきましたが、なかなか仕事のラチがあかないのでいまいち落ち着きません。

 

私の方の作業はもう送ってあるんですが、返事がまだなんだなあ…。やっぱりきっちり納品しないと落ち着かないことこのうえないですね。まあ自治体は会議があるから、なかなかなのはわかっていますけども…。

 

連日頭痛がするので、昼寝を試みるも、なかなかうまく眠れません。しんどいなりに活動モードにはいったままで切り替えがうまくいかないのかもしれません。しかし、この暑い中で耳鼻科通院とか余計な用事が増えてしんどいのは事実です。ずっと微熱状態のままで動いてるしね…(ーー;) 足のむくみも相当だしね…(ーー;)

 

早く秋になって欲しいですね。

 

 

 

幸せになりたければまず一歩を踏み出して

 

私の作品のことをよく「独特の世界観」と評してくださる方がいらっしゃいます。

 

多分、それが個性でもあるんだと自分でも思っていて、そういうものは「私が私であること」から生まれるんじゃないかとも思います。

 

自分の居場所とか、居心地のいい世界を作るのは結局自分の心のあり方と、それに沿った行動なんですよねー。他人任せにしていては叶わないことですね。

 

「天は自らを助くものを助く」かな。

 

 

天は自ら助くる者を助くとは、人に頼らず自分自身で努力する者には、天が助け、幸福をもたらすということ。

英語のことわざ「Heaven(God) helps those who help themselves.」の訳語。
他人に頼らず、自立して努力する者には天の助けがあり、必ず幸福になるという意味。
怠惰な者には、決して幸福は訪れないということ。

 

 

…と、辞書にもありますが。

 

これって助けが必要だと思ったら、ちゃんと自分で助けを求める行動力も必要になるんですよね。困窮していても、いまの日本の役所などは、申請しない限り、気づいてくれない、というのもあって。

 

誰かの手助けや制度の利用が必要だと思う時でも、まず自分から「相談する」という行動を起こしましょう、という感じだと思います。

 

この現状がいいか悪いかは別として、私はタナボタというものの存在を信じていないから。なにもしないで利益や幸福が落ちてくるわけはないと思っています。人事を尽くさないと天は動いてくれません。いままでの人生でさんざん経験して理解したことです。

 

こちらから働きかけると人は行動起こしてくれますしね。まず先んじる一歩は自分で踏み出すのがとても大事。

 

カウンセリングとか占いとか、霊能者とか、そういう人たちでも結局のところ「あなたの道を切り開くのはあなた自身ですから、頑張ってください」というようなアドバイスに集約されて落ち着くのが面白いところです(^_^;) どうも私はそういう人間だと判断されるみたいですね(^_^;)

 

 

世界はレイヤーでできているのかも

 

これは日常的にグラフィックソフトを扱っているものの感覚かもしれませんが、写真加工などで、なんらかの画像加工ソフトを触られた経験がある人にはご理解いただけるんじゃないかと思うんですよね、「レイヤー」のこと。

 

レイヤーとは

 

グラフィック・ソフトで画像を描画する面のこと。レイヤーに対応しているグラフィック・ソフトでは、複数のレイヤーを重ね合わせてひとつの作品ができ上がる。作品のパーツをレイヤーに分けて描画することで、レイヤーごとに編集したり、レイヤーの重ね順を変更する、表示するレイヤーを選択するといった操作が可能になり、複雑な作品を効率よく仕上げられる。(ASCII.jpデジタル用語辞典の解説)


主にグラフィック・ソフトで使われる機能の名称です。「階層」や「積み重ね」を意味します。
レイヤーを使うと、複数の画像を重ねて合成するとき、あとから位置をずらしたり、上下関係を入れ替えるという操作が簡単にできます。この機能で作られたそれぞれの階層もレイヤーと呼びます。
⇨グラフィック・ソフト(パソコンで困ったときに開く本の解説)


1 層。階層。「レイヤーケーキ」→レイヤードルック
2 グラフィックソフトやCAD(キャド)ソフトにおける、絵や設計図の仮想的なシート。複数のシートを重ねたり、別々に編集したりできる。(デジタル大辞泉の解説)

 


近いところでは透明なセルに描くアニメかなあ…。キャラを重ねたり、表情を動かしたり、背景を重ねたりの構成がレイヤーに近いと思います。

 

で、このレイヤーですが、レイヤーごとに不透明度を変えたり、通常や乗算モードなどを変更したり、順序を変えたり、また非表示にすることも可能なんですよね。

 

完成形は決まっているわけですが、ちょっと不透明度を変えたり、フィルタをかけたり、非表示にするだけで、まったく別の作品に見えたり、イメージが違ってきたりするわけです。

 

こういうものの見方を誰しもが無意識にやってるんじゃないかと思いました。

 

独特のフィルターをかけて見る癖がついてしまったり、とか、自分の都合が悪いものを非表示にして見ないようにしているとか、本当は光っているレイヤーのモードを変えて暗くしたりとか…。

 

自己防衛のために傷つかないためにもそういうことをやっていたりしますよね。本当は誰もが同じ作品世界を眺めているのに、見えるものが違うから理解するものが違ってくるんだな、と。このあいだの京都人のあたりでも似たようなことを感じていましたが。



haruusagi-kyo.hateblo.jp

 

もちろん、完成したというか、ありのままの現実を見ることは大事なんですが、逆に考えれば、いまの世界を生きづらいと感じている人だって、意識して、生きやすい世界を見るようにしていけるんじゃないかとも思います。必要以上にキラキラの現実にすることはないですが、それも工夫次第でね。

 

正しく現実を見ている人はどれくらいいるのだろうか?とふと思ってしまいました。

 

 

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意思の疎通を超えた魂の会話という介護

 

意思の疎通と介護と

 

 

昨日ミントさんのこの記事を読んで考えてしまいました。

 

yuuhinooka.hatenadiary.com

 

介護というのはその人の人生の家族関係の総括みたいなものだと思っていますが、だからこそいろいろな反応は出てくるだろうな…と思いつつ…。

 

実は私にはまったく両親と「意志の疎通が不可能」という事態が想像出来なかったりします。仮に意識がない状態でも、なんらかの通じるものはあると思うので…。

 

父も脳梗塞で、脳の右半分が死んでいましたし、半側空間無視という状態で、おそらく左半身が「ある」という意識もなかったと思います。不思議ですが、それも脳梗塞の症状ですね。左目は見えていなかったかもしれません。

 

もちろん左半身は麻痺している状態で、腸なども半分は働きが悪く(もしくは働かない状態で)便通も自然には無理でしたので、訪問看護師さんが摘便の処置をしてくださるあいだ、よくお腹のマッサージを続けていました。食事や投薬は胃ろうでしたし、相当介護の手がかかったのは確かですが、大変は大変だけど(自分も双極性障害があるし)でも嫌だと思ったことは一度もなかったし、最後の最後まで意志の疎通と気持ちも通じていました。

 

家の中のことはなんでも普通に話していたし、それで、父も家長としての責任感とプライドを持ちつづけることが出来たんだと思います。病人なのに、わがままは言わず、家族のことを思いやる優しい人でした。

 

 

 

看取りを果たすこと

 

でも、元気な時から死ぬことが怖くて、よく丹波哲郎さんなどの本を読んでいたのを知っていたから、これは出来るだけ安心出来るように、穏やかに送るのが私の使命だな、と思いました。

 

だから最後の三日間はずっと手を握っていて、「大丈夫、大丈夫、リラックスね」と言いながら、でもああいう時って不思議で、これから逝く人のための言葉っていうのが自然と口から出てくるというか、あんまり私自身が喋っている感じがなかったので、誰かの気持ちが降りてくるみたいな…。ついでのことにイメージも降りてくるみたいな…。あれも瞑想に近い状態になっていたのかもしれません。

 

父はとても穏やか、かつ安らかに息を引き取りました。私の介護はそれだけで充分に報われました。

 

それで最期のひと息まで看取った時にも、まだその辺に父の存在を感じていました。父の気持ちも…。結構長くそれは感じていて、いまでもアンテナを向ければわかる気はするので、私の行動はあれでよかったんだと思っています。

 

その長い介護の期間を通じて、人間的にすごく成長もしたし、メンタルもとても強くなったなあ、と思っているし、私には父が最期の贈り物をくれた気がします。だから私にとっての介護の体験っていうのはとても大切なものなんですよね。

 

 

いつかは母とも

 


母の場合はいまは特養にお願いしていますけど、本当に最期が近づいたらしっかり泊まって付き添わせてください、とお願い済みです。自分になすべきことはわかっているので、それはしっかりと果たすつもりでいます。

 

このあいだ母に「そういうわけでな、工場の跡地にスーパーが出来たんよ。すごい助かるわ」と言ったら、「よかったなあ、はよ帰り」と言われました (^_^;) 母はいつでも家のことを案じてくれています。さすがに主婦だと思います。どこの場所にいようが、どういう状態でいようが、父は父で母は母なので、私も最期まで、いや、亡きあともそういうふうに扱っています。

 

どんなに無理に思えても私には意志の疎通が可能なんですよね…。

 

 

魂と寿命と

 


私の独自の考え方かもしれませんが、人の寿命は「この世でその人がなすべきこと」と密接な関係があると思っています。

 

どんなに危機的状況に陥っても、まだその人にお役目が残っていれば助かるようになっているし、逆にどんなに手を尽くしても亡くなる人は、もうこの世での仕事が完了したということじゃないかなあ、と…。

 

こういうことが呑み込めていると、どうして自殺はよくないか?とか、おのずとわかってくるんですけどね。

 

寝たきりで、意識がない病人でもその状態で、その姿で人に教えてくれていることがある。…そういうことも介護から親身に学びました。まさに魂の学びというか…。

 

この十数年、健康で普通に働けていたら、それはそれでよかったかもしれないけど、私はやはり自分が選んでしっかり果たしてきた経験から学んだことに大きな価値を置いています。

 

最期に全存在をかけて、それを教えてくれる両親に関しては私は感謝しかありません。
だからこそ、私も全霊で学び取りたいと願っています (^_^;)

 

 

 

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天の海 月の船

 

できました(^^)

 

かの有名な万葉歌 

 

天の海に 雲の波立ち月の舟 星の林に漕ぎ隠る見ゆ
        ーーーー万葉集 巻7・1068

 

のイメージで描きました。
青系ではない宇宙です(^_^;) 秋っぽい感じ?

 

このごろ月に1作くらいしか描けないけど、現実の厳しさを考えると

これでも相当頑張ってると自分で思うのです。

でも、これがやはり一番の幸福かなあ、と思っています。

 

楽しかったです(^^)

 

大きなサイズの絵はサイトまでいらしてくださるとうれしいなあ。

星宿海 渡時船

 

このタイトル、サイト名に似てますが、発想の原点が近いんですね (^_^;)

 

 

 

 

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