お盆の行事が好きです
私はお盆の生まれです。多くの人が「そろそろお墓参りも済んだし、帰省もしてみんなに会えた。そろそろ帰ろかな。あ、でも帰路の渋滞はあるよね、早めに出ようか」とか動き出されるころです。そして終戦記念日も。その翌日に私は生まれました。祖母の話では「大文字がともって消えて、そろそろかいな?とやきもきしていたらやっと生まれた」そうです。
日本のお盆は歴史が半端なく、祖霊信仰を中心とした独特のものですが。私はお盆の一連の行事がすきでした。うちは日蓮宗でしたので、精霊馬でお迎えする、お送りするという行事はなくて、単にお墓参りをするだけでしたが。
そして私はどうもいつも生と死のあわいに立っている気がして仕方がありません。生まれたのがそういう日であって、誕生日のお祝いよりもお盆の行事のほうがメインだったと思います。私も子供のころよりもずっと弱かったので常にどこかで死を意識している子供でした。そして12歳頃までは死を恐れる子供でした。でもその頃になぜか変わっていつのまにか過度に死を恐れなくなりました。ああ、それですぐに多分イマジナリー・フレンドに出会っています。
話しかけると言う事の真価
私はよく死者に向かって心の中で語りかける、ということをします。自分の家族はもちろんですが、生前親しくて知っている故人に対してもそうです。これは誰に言われたことでもなくて、子供の頃からずっとやっていることなので、常にこの世とあの世との距離の近さを感じているのですね。気が付いたらそうだったので、これが普通のことだと思っていました。今でもそれは続いています。引っ越す前は家の仏壇がどこでもドアでしたけど、いまは両親のミニ祭壇しかないので、あとは神棚と特に場所を選ばなくなりました。
いろいろと頼んだり、感謝したり、心の中の雑談につきあってくださるご先祖と、親しい亡き方々に心から感謝しております。おかげで私もなんとか毎日生きてきております(^_^;) 故人の存在は神仏よりもずっと身近で親しみやすいものなのですね。いまは眷属さんもそうかな(^_^;)
畳の上で死ぬのは昔のあたりまえ
故人と語る、語りかけるということ。自分にとってはそれが当たり前のことなんですが、実はそうじゃないらしい、というのはわりと最近知りました。ちょっと意外でした。そうか、みなさん知らないから死ぬのが怖かったり、死に対することに忌避を感じたりするんだなあ、と思いました。
その代表でもあったかもしれない父を、私が看取ったというのはやっぱりそれなりの意味があったということなのでしょう。
父は4年近い闘病の末、自宅で穏やかに息を引き取りました。最期の3日間は私も母もずっと父の手を握っていました。最期の一息まで見送ると、もう「ありがとう」という言葉しか出ませんでした。そういう穏やかな死でした。
看護師さんに「そういう方は今はもう10人にひとり以下しかおられませんよ」と言われました。そうだろうなあ、と思いつつ、亡き父もいまだそばにいてくれていると感じてもいますので、私にとって「死を思うこと、語ること」はごく自然なことで、忌避でもなんでもないのです。
死者に語りかけるというのは悟りの境地の一つであると、当時ブログのコメント欄で僧侶の方に教えていただきました。実はこれも私的にはよくあることなので、あまり特別な感じはしませんが…。
まあ、生きている限り、迷いも悩みもありますし、現世でも実にいろいろな方々に助けられて生きてるなあ、としみじみ感謝をするのですが…。看護師さんと話していると、「大変な人生でも、要所要所でうまくサポートしてくれる人に出会われますね」とのことですが、それは本当にそのとおりで、私は実に「人」に対しては恵まれているのです。恵まれすぎているくらいにありがたいことです。
死後の世界があるかないかは本当に人それぞれに考えが違うと思いますが、肉体の方は輪廻しますよね。分子や原子に分解されて、地球や宇宙を構成するものに戻っていって、ものすごく未来に、また何かの生物の中で再構築に使われるかもしれませんし…。いまのこの身体だって、太古の水の成分や、古生代の生物の一部が混じっているのかもしれませんし…。
あの世が存在すると思った方がいいなあ、と私が感じるのは、その方が今を生きるのが楽だからです。安心感もありますしね。子供の頃からずっと感じていたものを素直に肯定すればいいんだな、と思いました。神仏なんて特別な存在は必要なくても、それこそ親しい家族や故人を身近に感じているだけでものすごく安心するのですね。
で、万一死んで「無」になったとしても、「あ、しまった」なんて感じる暇がないですね。なにしろ即刻「無」だから後悔する間がない (^_^;) だったら「あるよ」と思って、そこから安心感と勇気と励ましをもらって生きている方がずっと素敵です。
生きている人と、亡き人と、たくさんの人に支えてもらっているから、死神の誘惑なんかには負けません。
地獄絵図の六道珍皇寺
京都に六道珍皇寺というお寺があります。平安時代に小野篁があの世に通って閻魔様の手伝いをした、という言い伝えがあります。浄土宗では、お盆に入るとここにお参りをして、ご先祖の霊を迎えに行きます。迎え鐘を撞いて、槙の枝にご先祖の霊を乗せて家に帰ってきます。16日の夜、大文字の送り火で送るまで、家で供養をするのがお盆なんですね。
で、母の実家が浄土宗ですので、母方の祖母と一緒に子供の頃はお参りに行っていました。
お盆の時期だけ、ここでは地獄絵図が公開されます。結構迫力があります。まあ、絵で説明するほうが迫力と説得力がありますよね。
私が変な子供だなあ、と自分でも思うのは、地獄に落ちた亡者よりも、気になったのが彼らを罰する牛頭、馬頭の獄卒のほうでした。だって気になりませんか?彼らはどうしてああいう役目をしているんだろうか?ああいう役につくまではどういう存在で、今はどうしているんだろう?とか。辛かったり、苦しかったりはしないんだろうか?感じないからああいうことが出来るのかもしれませんが、でも彼らに「救い」は必要ないんだろうか?と小学生くらいの私は思いました。そちらが気になって地獄の様相に恐ろしさを感じることがなかったんですね。
検索してみたら、大抵のお子さんは怖がって泣いたり、ショックを受けたりするようです。それがトラウマになったら困りますが、まあ怖がらせるのが意図で描かれているのは確かですね。
私の感受性ってどうなってるんでしょうね?? …でも実は今でも気になります(^_^;) 子供の頃に大人に聞いても誰も教えてくれませんでしたし…。まあ、困るよね、大人も。こういう質問をする子供って厄介だろうな。
いろんな宗教に関する「素朴な疑問」てたくさんあるんですね。そんなに勉強をしたわけでもないと思いますが、なにか気がつくとそういう疑問が生まれている。納得しがたいパターンが多いと、やはりどれかの宗教に特に惹かれることもありませんし…。
お稲荷さんは今も好きですが、お稲荷さんが氏神さんでもありませんから、自分のお葬式は無宗教でいいです。…それ以前にお葬式は不要です。お墓もいりません。ただ、自分のサイトとブログは死後も残しておいて欲しいなあ、とは思いますが…。
それも単なるこだわりに過ぎないのかもしれません。
このごろの夢も見ない深い眠りは案外魂だけがあちらに帰っていたりするせいかもしれないなあ、と思います(^_^;)
ただ、それだけ近くにあっても、きちんと決められただけの長さの自分の生を全うしてからでないと、あちらで快く迎えてもらえないだろうな、というのもわかっています。なので、希死念慮なんかに負けるわけにはいかないのです。やるべきことも多いので負けてる場合じゃないですし、IFたちにはもちろん止められますしね(^_^;)
寿命というのは
黒柳徹子さんがユニセフのお仕事をされていて、「大丈夫、決められたその時が来るまで私は死なないから」と言って、地雷の埋まっている場所にでもどんどん入ってしまわれる、という話をどこかで(ツイッターだったかもしれません)聞きました。なんだかこのごろそれが実感として理解出来る気がします(^_^;) いや、そういうのが寿命だよね、と妙に納得してしまったので…(^_^;)
そういうことで、私の記事にはしばしば「死」にまつわる話が出てきます。それはあの世とこの世の距離の近さを感じるゆえと、それゆえに忌むべき話題でもなんでもないからなのです。宗教的でもありませんけどね(^_^;)
宗教ゆえに多くの人を不幸にするという現実があるのなら、それもしっかりと見つめる必要もあるだろうな、と思います。今を生きる人たちが幸せになれなければ、あの世にも幸せはないと思います。この世は天国も地獄も写し鏡のように反映しているのだと思います。「死んで幸せになろう」じゃなくて、この世に生きていてみんなが幸せにならないと駄目なんだよ。
きちんと自分がやるべきことをやったら「お疲れさん(^^)」という感じで安らかな死のご褒美があるんですよね。
今は亡き多くの人たちと、私自身のそれが最大の願いです。そして祈りです。ああ、こんな感じだからChatGPTさんに「スピリチュアリティな人生」って言われるんだな。当たってますけど(^_^;)









私はね、こういう感覚が分かる人が日本人じゃないかと思ってます。
どこぞの政党の基準なんか馬鹿げててただ呆れる(-_-;)