気が向いたら内科受診しているかもしれません。
Twitterのネタから。
片付け脳から方向転換が難しい (ーー;)
散らかっている部屋を見ると脳みそが片付けモードのままなので、「ああ、片付けたい!捨てたい!」という衝動に駆られます。習慣化するとすごいね。怖いね。もう自分はすんだからこのモードを手放したいです(>_<)
このまま散らかさなきゃいいのよ。片付けはもういいから創作モードに戻りたい (/_;)
私の場合、1年弱継続すれば習慣化するのがわかったけど、大抵の人は同じくらい続けたらやはり習慣化出来そう。
大変なのは優先順位の入れ替えですね。もう片付けはいいんだ、と脳に再認識させるのがまた結構大変な気がする (ーー;) 厄介だなあ (*-д-)-з
両親の介護して、きょうだいの介護までしない、と言ってたけど、でも結局弟の介護っぽいこともやってるますよね。だからこそ市営住宅の障害者枠で入れたんですが… (ーー;) 微妙に複雑な気分ではあります。
私の人生後半ずっと介護?…みたいな?嫌じゃないんだけどね。まあ、修業だと思えば。
身体があるからこその意義
考えたら私、生来の体質もあって、生まれた時から現在まで病院や薬と縁が切れたことってほとんどないんです。人並みに出来ないこともかなりある。
でもこれって「身体があるゆえの負荷」かな、と思う。弱い人たちの気持ちがわかる人間になるように、という負荷。
基本的に私はきついところがあるという自覚があるので、それをカバーするために一見マイナスにしか思えない要素を加味されたみたいな…。
なんかおかげで医学関係のことに詳しくならざるを得なかったしね。意図して学んだわけじゃなくて、なんか必要に迫られてそうなった感じです (^_^;) まあ、プラスもマイナスも裏表ですよ (^_^;)
気持ちがいいことも、しんどいことも「身体があるから体験出来る」ことって多いので、精神と魂に加えて肉体の存在ってやはり大事なんだと思います。身体があってこそわかることが多いから、必要なんだろうな。
体力や能力に恵まれた人は肉体的な労働やアスリートなどとして、その身体能力を生かすだろうし、器用な人はものづくりに能力を生かすだろうし。頭のいい人は頭脳を生かすし、いろんな才能があって世の中が成立してるんですよね。
なので、私みたいにタフじゃない身体の人間は世の中のもっと多くの「強くはない、弱者にもっと目を向けなさい。彼らを理解して共感してそれでなにが出来るか?」という課題があると思っているんですよね。あくまでも個人的に。
障害者や病人や子供や高齢者や、そういう身体的に弱い立場の人や、貧困や家庭の事情などから弱い立場に置かれている人や。同じ目線の高さで、理解するような努力は可能だと思うし、なにが出来るかともに考えることも可能かと思います。
だからきっと私は「弱くあれ」という負荷を持って生まれてきたんじゃないでしょうか。
そしてそれは多分私の個性だから自分を卑下する必要もないし、ましてや責めたり落ち込んだりする必要もないので、いつもなにが出来るか考えていたいなあ、と思うのです。「されども心は強くあれ」なんですが (^_^;)
世の中には無駄な人間なんてひとりもいない、ということすら理解出来ていない人がいるからね。
弱くあれ、
その痛みを抱け。
いつの日か
君のくたびれた靴が
強者を屈服させるまで。
ーーーゲルトルート・コルマー
ゲルトルート コルマー
Gertrud Kolmar
1894 - (没.不詳)
ドイツの詩人。
本名ホジェスナー。
ユダヤ系の女流詩人。1943年ナチスに拘引されて以降不明。ドロステ・ヒュルスホフなどの影響を受けて、暗くて孤独な雰囲気の背後に繊細な美的感覚を秘めている。生れつきの鋭い感受性とユダヤ人としての体験が、虐げられた女性や子供、動植物などの苦難への理解と同情を深め、連作詩である「女性と動物」(’38年)を生み出した。その他の作品に、詩集「さまざまな世界」(’47年、死後刊)等がある。20世紀西洋人名字典より
この「弱くあれ」という言葉は突然どこかから降りてきたので、検索してみるとこのゲルトルート コルマーという方の詩にぶつかりました。失礼ながら初めて知ったんです。
このごろ未知の言葉をキャッチして、調べたら意外な人物にぶつかることが多いです。多分、こういうのが直感のなせる技 (^_^;) 面白いです。道が拓ける感じ (^_^;)