障害者のクォリティオブライフ
6月くらいから、えんえんと続いていた「障害者のクォリティオブライフに関するアンケート調査」が昨日やっと終わりました。長かったですね。半年だもんね。
その半年につきあってくれる人がなかなかいなかったらしいので、大学の方からも感謝されてたようですが、作業療法士さんも長々とお疲れさまでした (^_^;) 私ともうお一人担当の患者さんが参加されていたようです。でもおそらく全国規模のような気がするので、有効なアンケートが集まるといいな、と思っております (^_^;)
で、これに参加して私もいろんな気付きがありました。
ほとんどルーティンのような日々ですが、それをたとえば「日常的な作業」と「仕事」と「余暇」と「レクレーション」あたりに分類すると、私の場合、家事などの「好きじゃなくてもやらないといけないこと」が「日常的な作業」で、あとその他「読書」などがわずかな「余暇」に相当するので、「好きじゃなくてもやらないと駄目なこと」と「それなりに楽しんでやっているネットや読書」に分類されます。
そしてそれらはどれも「必要なもの、大事なもの」なんですね。
つまり「暇を持て余して遊んでいる時間がない」ということになります。
無理やりにやらないと片付かないことをうんざりしながらやってるか、もしくはそれなりに楽しんでネットなどをやってるかのどちらかしかないと思います。「どうでもいいからなくしても困らない」なんてことがゼロなんですね。まあ、自分の中の限りあるエネルギーをどう使うか、つねに考えているとそうなるのかなあ、と思います。
病気だからといってぼんやり過す「わりとどうでもいい時間」が私には存在しないと判明しました。
他の患者さんはどうかわかりませんが、自分の場合はそうなんだと判明して興味深いです (^_^;) 私の人生ずっと退屈知らずですね。
勝手に決めつける人たち
(意地悪なことを言います)施設の見学に来たおばさまたちの一人が、子どもたちを見て「何てかわいそうに」と言った。私は腹が立った。どの立場で言うのか。何故、ここに居る子たちが「かわいそう」かどうか、あなたが決めるのかと。そのおばさまはギラギラの大きな指輪をしていて、私はそれを睨んだ。
— みなみ 海 (@cocoro_zasi) December 14, 2018
他人のことを「かわいそう」とか言うのは失礼ですね。相当傲慢で身勝手ですからね。
ついでに他人のことを勝手に「不幸」だというのも止めて欲しいです。ひどく傲慢です。
昨日のTwitterで絡んできた人が勝手に私のことを不幸とか決めつけてきたけど、とっても失礼だ。私は自分が不幸だと思ったことなど一度もないぞ。幸福だとは何度でも数えきれず思ったけど。
私よりも豊かな生活が出来ているなら、それで充分じゃないですか。ありがたいと思うなら少しは寄付して。私は毎度のことだけど山中先生のiPS細胞の研究のためにささやかに寄付してきたよ。
あー、この人、医療が嫌いなんだっけ。じゃあ、嫌いな自分に関係なくても必要としている世界の子供たちは本当にたくさんいるから、そちらに寄付してくれば?と思うけど。
なんだろうなあ。私よりも豊かであっても全然幸福そうじゃない人はいるよな。だからマウント取って優越感にひたりたいのかもしれないけど、それは無駄だから。幸も不幸もすべて自分が決めるんですよ。
人から見ても評価は正しくないことがほとんどです。他人のことなどあてにしなくていいですね。
私はいままでに看取った人や、別れた人や、犬や小鳥やうさぎに至るまで「また逢おうね」と別れの挨拶をしてきたので、あの世に逝ったら結構忙しいかもしれないと想像すると気持ちが浮上するなあ… (^_^;) #Milkカフェ
— 藤本恭子/双極性2型障害と共生中 (@haruusagi_kyo) December 14, 2018