今日はクリニックの受診日で、なおかつついでに済ませたい用事もあるので、予約投稿しておきますね。
有名な詩なので、ご存知の方も多いと思いますが…。なんとなくこの詩から連想したお話です。
生涯を左右する言葉との出会い
私はその時二十歳くらいで、いろいろと煮詰まっている感じの最中でした。まだ完全に体調も戻っていなくて、せめて手に職、と思って洋裁を習いつつ、人のものも縫わせてもらうというささやかなバイトもしてました。
手作業とミシンだからテレビは邪魔だし、もっぱらラジオを聴きながら作業をしてたんですね。
なんの番組かわかりませんが、その時突然、大西良慶さんの短い法話のようなものが聞こえてきました。大西良慶さん、清水寺の貫主で、すでに百歳越えてらしたと思います。
その良慶さんの一言
「観音さんにはお姿(肉体)がないの。そやから、家族やら友達やら、身近な人の姿を借りて現れはんのやね。」
…あれから40年近く経っても、いまだに覚えているから、その時の私にはかなりインパクトがあったんだと思います。ちなみに清水寺は観音信仰のお寺です。
観音さんでもなんでもよかったんだと思います。でもそういう姿がないもの、仏性とか神性とかいうものはどこまでも人の姿で肉体を借りて顕現する、というのが、私にはすんなり納得出来て(こういうものはどうやら理屈ではないらしいです)、同時に天国も地獄もこの世の中に存在するんだな、と思いました。
どうせなら、人の姿に顕現する尊いものを見逃したくないな、と思いました。そういうものをたくさん見つけることで、人生の幸福感が増すだろうな、と思えたので…。
自分の感受性くらい
そういうものをキャッチするにはやはり感受性が大切になりますね。
過敏に反応して、それが辛いからと言って避けるだけでは、せっかくのそういう機会を見逃してしまうから…。だから人と関わることを大切にしたいと思いました。
まあ、多少なりめげたところで、また立ち直ればいいんだし、と思うと「自分の感受性くらい自分で守れ」という詩がとても腑に落ちます。
私が敏感な自分をあまり苦にしていないのはそういうのがあるからじゃないかなあ、と思いますし…。
実際に、そういう関わりは限りなくありました。一度も相手には言ったことはありませんが、常々心の中で感謝しております。
そしてできることなら、誰かの必要な時に、必要な言葉をあげることが出来たり、ささやかなヘルプの手を差し伸べることが出来たら、もっと嬉しいな、と思います。
感受性のアンテナはできる限り、そういう方向に向けていたいと願っています。結局はそれが創作とも深く関わってくることになりますしね。
生きているだけでいろいろなことに心は揺れるけど、どこにアンテナを向けて注意を向けて、得るものを見つけるかは心がけ次第で違ってくると思うので…。
基本的に生きづらいのは当たり前で、でも無理に世の中に合わせていると辛くなるばかりなので…。でも絶望する必要はどこにもないと思っています。「この世の仏性を見つける感受性」は最後まで持ち続けていたいと願っていますし、それは大それた望みでもなんでもないと思っています。