写真ぎらい
今朝方、久しぶりに夢らしい夢を見た。
夢の中では、隣家が友人の家になっていて、家族で写真を撮るというテレビの企画に応募したという。それを聞いた母が「私もやりたい」と同様に応募したという。
ところが、私はテレビどころか写真を撮られるのが嫌いだという人間なので、それに対して怒っていた。
怒った気分のままに目が覚めたので、さらに具合が悪かった。
そう…。私はなぜか自分を写真に撮られるというのが昔から大嫌いな人間なのだ。
理由はわからない。
アルバムを見ると、幼稚園の頃までは親も熱心に撮影し(白黒ですが)結構な枚数をアルバムに残している。
が、それも小学生になるとぴたっと止まる。親に余裕がなくなったらしい。
まあ、その頃から家のローンも出来たしね。
それと並行して私の写真嫌いがエスカレートしていったみたいだ。
クラス写真や、修学旅行、卒業アルバムなどの集合写真は仕方なく、大人になってからはやはり証明写真などの場合を除いてはほとんど写真というものが残っていない。まず撮影していない。
旅行に行っても撮るのは風景や花や動物、子供たちくらいで義理で同行者を写すものの、自分が撮られることは全部お断りしていた。
唯一の例外は20代半ば、初めて勤めた時に記念として、自分の縫った服を着て街の写真館でしっかり写してもらった写真があるだけだ。
もちろんお見合い写真ではない。事実お見合いなど一度もしたことないし。
高校生の頃、「後輩から中学の卒業アルバムを見せてもらった」というので、おつきあいしてくれませんか?とか何度か男の子から電話があったりしたけど、写真だけでなにがわかるのか?と疑問を感じて全部断ってしまった。(悪気はないのよ。ごめんね、当時の男の子たち)
お見合いったってこれと同じだよなあ、と思ってたな…。
この私の写真嫌いの原因はなんなんだろうか?自分でも実はわからない。
見るのは大好きなんです。やはり風景や花や動物、子供たち。
綺麗なものや可愛いものは大好きだし、トリックアートみたいな新鮮な驚きがあるものも好きだし、天体写真も大好き♪
もしかしたら私は肉体を借り物というか、仮の姿としか思っていないのかもしれない。
だから出来れば、内なる本質を見て欲しいという願望は強いと思う。
そしてその内なる本質により近いものが自分の作品だと思っている。
化粧したり、ダイエットしたり、髪を染めたりとか、そういうことにこだわらないのも基本は同じかもしれないなあ。アンチエイジングとかも。
このままいくと私が死んでも遺影に使える写真がないままかもしれない。
それでも別にかまわないな。そもそもお葬式も不要だと思うくらいだし。
かわりにwebサイトは永久保存して欲しいけど。生きていた証しに。
肉体は大事だと思いつつ、だんだんその存在が疎ましく思えるようになってきた。
いつか魂だけに還る日がきたら、どんなにか素晴らしい解放の日だろうかと思う。
とりあえず、それを楽しみにしている。