「理解する」ということについて考えた。
たとえば樹齢1000年以上の巨木が存在するとする。
その外見を見て「立派な樹だ」とまず思う。外見から感じるのはその樹が抱える大きな「気」のようなもの。触れてみる。耳をそばだてる。樹液の流れを聴く。年輪を想像しつつ、その樹がずっと見つめてきた歴史を思う。環境を思う。地中に根を張る生命を思う。彼と交信する宇宙の存在を思う…。見つめて生きてきた人たちの生活を知る。大きな生物としての「流れ」を見つめる…。
その枝葉や樹皮だけを説明して、それだけで「その樹」を理解して語る、という表現は適切だろうか?
私はそうじゃない、と思う。ずっと深い大きなところにある本質のようなもの、見えない根っこの部分やいままでの歴史まで知らないと「理解した」というにはまったく不十分だと思う。
見えない部分までを感じ取れる能力を、本来人間は持っている筈だから…。
で、結局私がなにを言いたいかというと、「反原発」とか「脱原発」の流れの中心にいて、人目を惹きやすい人たちのことに対する理解について、なんだよね。
彼らに疑問を抱く人たちが残念ながら存在する。
彼らの考え方の基本はすでに世界的にはごくポピュラーなもので、逆に日本では「異端」などと言われること自体がかなりおかしい、ということも知らない人たちがいる。
その人たちは深い本質に気付かない。見ようとしないのか、そもそも想像もつかないのか、それ自体が疑問なんだけど…。
で、表に見える枝葉の部分、たとえば数字だけで判断しようとする。目に見える行動だけで結論を導こうとする。それはとても正しい理解の方法だとは思えない。
けれども、またそういう見えない人に影響されて、同調する人がいたりするから、ホントに困ったことだと思う。私には非常に浅はかなことだとしか思えないけど。
私が昨日のつぶやきで、どうして、もっと深い本質やテーマが見えないの?とこぼしていたのもそれのこと。
哀しいけれども、理解力の程度には本当に個人差があるようだ。
素直にシンプルに「本当に大切なもの」を考えてみることがポイントなんだけど。
不思議なことに自分のことを論理的だとか、科学的だとか思っている人の方がこういう落とし穴にはまりやすような気がする。
だから私は一人でも多くの人に「魂の選択」を出来るようになって欲しいと願うのだ。枝葉だけのことなんかどうでもいいと思う。
しっかりと大地に繋がる「生命」のことを少しでも素直に、かつ深く理解できる人が増えて欲しいと願う。なによりも未来のために。子供たちのために。