横になりたい、という倦怠感が非常に強いです。今日は誰も来られない日だから、ぼーっとしていてもいいんですが…。ついでに食べることも休みになるといいんだけどなあ…。
人生に「勝ち組」「負け組」だという基準を設けるのはいいかげんにやめませんか?
死ぬ間際に振り返ったら、その「他人と勝敗を競うこと」の無意味さに気づくでしょう? 勝ち負けを競う相手は最初から最後まで「自分自身だけ」なのです。
このあいだの藤原和博さんの著書の中で取り上げられていた、志村季世恵さんの本を2冊続けて読みました。
「いのちのバトン」と「さよならの先」
私はいままで、この志村季世恵さんという方はまったく存じ上げなかったのですが、「ああ、私がやりたいことを、すでにずっと以前からやっていらっしゃる方がある」という気持ちでした。
志村季世恵さんのプロフィールがわかりやすいインタビューを見つけました。
セラピスト、と言っても特別な資格を持っておられるわけでもなく、不思議なご縁のような形で、そういう仕事をすることになる流れがあったみたいですが、実に多くの方の死の間際に向かいあって、心を支えておられます。
死は間近にあるけれど、それでもまだできることがある、という…。悔いを残さないターミナルケア…。
しかもこの仕事はまったくの無償でありボランティアらしいです。他にも仕事として手がけておられることがあり、だからこそできることなのかもしれませんが…。また支えてくれる人も集まるんですよね。素敵なことだと思います。
志村さんはどこにでも緊急性がある場所に飛んで行かれますが、私にはそういう体力も気力もないので、羨ましい限りです。羨ましいけど、でも自分の無力を嘆いていても仕方がないので、自分ができる範囲のことを考えないとね、と…(^_^;)
私もやっぱりお金になることを考えるのは苦手だけど、お金にならないことはやりたいというタイプのようで、これはどうしようもないなあ…と思っております。アフェリエイトに時間をかけるなら、そのかわりにもっと人と関わりたいのかもしれません。疲れるくせにそういうことを思ってしまうのは業でしょうかね〜(ーー;)
どこかで見かけて思わず笑ったのですが、「占い師は幸福でなければ信用できない」というセリフ。確かに人を幸福に導く仕事の人が幸福でなければおかしいと思えます。
でもターミナルケアは違うよね。痛みを知っていて、なおかつその辛さの中から、幸せを見つけ出し、育てていけるなら、資格はあるよね、と思いました。本来はごく身近な人から、それを始められるといいのですが、出来るならもっと広い範囲でできたらいいなあ、と、私自身もそういうご縁があるのならばやりたいことだと思っています。
「普通の人」である季世恵さんが素敵だと思います。
この2冊の中には実際に対峙してこられた患者さんとその家族の人たちとのやりとりがメインに描かれています。最後の最期まで「人を救うのはどこまでも人なんだ」ということがとてもよくわかります。旅立つものも残されるものも共に力になる貴重な日々のエピソードの数々。
この先、自分自身が見送られる時が来るまで、その貴重な時間を最期まで「生み出せる人」でありたいと願います。