やる気も飛んでいく失敗の結果
昨日、一瞬で飛んでしまったブログの内容を思い出しつつ…。たいした内容じゃないですが、それでも2000字近くあって、それを毎日書いていたら、小説だったら1~2年で長編が書ける文章の量じゃないのか?とふと思ったり…。具体的なイメージがわかないな。400字詰め原稿用紙で5枚前後?すばる文学賞だと上限400枚とか500枚とかありますね。
いや、私は小説は書きませんが、単純に「文章を書く」ということではわりと習慣化されてるなあ、という感じ。
でも昨日みたいなことがあると私だったら「もう会社行きたくない」という気分になるところです(^_^;) 自分のブログでも本の形にする大変さがわかったわ。
ギャラリーサイトはサイトで、大変ですしね。このあいだAdobeMuseのコピーをしていたら、サイト関係のファイルが万単位になっていて、自分でも死にそうな気分になりました(;_;)
20年分です。これでも何度か途中で整理しています。あまりにも拙い作品は下げるとかしていますし。それでもそれだけ山のようにあります。時々印刷に耐えうる作品は画集にしていますが、それで全部という訳でなく、自作のカットやアイコンや壁紙もあるので、アセット自体も山ほどあります。背景までそうやって凝れるのは自分のことサイトだからですが。
それをいずれ弄る時が来るかと思うと目眩しかしません。でもpixivやポートフォリオでは不完全なんですね。困ったなあ。
とにかく「膨大」としか言えませんね(~_~;)
ペンタブの設定とMacのセキュリティの関連
あ、文章の話じゃなくて、昨日Wacomのtabletの設定をしていてわかりました。設定が大変だと思ったのは、MacOSのセキュリティが厳しくなっていたせいのようです。サポートコミュニティで確認しないと駄目でした。
セキュリティのせいならXP-PENだって設定出来るはずですね。両方入れるとややこしいので、とりあえずはWacomにしますが。
私はペンタブにこまごました余計な設定があるとうっとおしいもんで、ペンに付いている消しゴムすら使いません。ボタンにShiftとOptionを当てはめたら、あとは全部無効にします。スクロールも勝手にされると嫌なんで、とにかく無効。触りたい時はソフトの画面からになります。
あ、今回はズームインとアウトも設定したわ。
機能が多いのは親切なのかどうか??20年前に使ってた1号でも私には十分だったなあ。初代Intuos。お絵描きソフトもPhotoshopかペインターしかなかった時代です。だから私はPhotoshopに特化した感がありますね。
なんかもう、「習うより慣れろ」というしかコツはないです(ーー;)
まだお若い方がこの間Illustratorを始めるかどうかで逡巡されてたんで、習うより慣れろという葉っぱをかけてきました(^_^;) 脳味噌だって若い方が柔軟性があるし、もしも合わなくて別のソフトでやり直すゆとりは十分にあるからです(^_^;)
そこそこ試行錯誤するから身につくのよね。なんでもそうですが。
多くは望まない、当時の機能ですね。いまでも結構それくらいで間に合ってます。
目には見えない精神と魂の経験
一昨日の話題とリンクするんですが、とても個人的なことですが、私は過去に何度も生まれ変わってきているかも…と仮定すると、なんだかいろんな疑問とか違和感とかそういうものがかなり解けていった気がします。きっと多分「自分はそういうところが違うなあ」と感じてたみたいです。
仮定でもいいんです。過去の経験をどこかで記憶していると、いろんなことで既視感があったり、ちょっとやそっとのことではパニックしなくて冷静に対処が出来るみたいな、過去の経験値がすごく重層的に感じられるくらいですね。いまの人生以前にも生きていた時に学んでいたことがある、と思うと、それも納得出来てしまいますね。腑に落ちた感があります。
ただそれだけのことに何十年かかってるかなあ??
えー、ちょっと物語を生きている感じで、それだけ自分自身と距離が取れて冷静な対処が可能になります。
救急車に20回以上付添で乗っていたら、パニック発作どころじゃなくなったとかね、そういうことがあちこちでありまして。なんでも慣れるとそんなにショックにならずに落ち着いてきますやん?
たとえば初めての人生を送っている人なら初めての経験ばかりでとまどうことが多くても無理ないと思います。過去に何度も体験してきた人は若くても慌てないし落ち着いている、みたいな感じかな。実年齢だけではない個人差ってありますよね。
視野が広がるということ
優れているとかいないとかではなくて、視野と視点が違ってくるので、いわゆる「大局を見る」とでもいうか、そういう視点が出来ちゃうわけなんですが、これも経験したことがないとピンと来ないことだと思います。そのへんが経験値なんだよね。だから理解されづらい側面がどうしてもありますね。
例えばかろうじて生活が出来ているくらいの持病があって、これ以上はない無理矢理には動けないという制限があるんだけど、その制限によって無茶や無謀をしないことで生命が守られている側面があるかな、ということを同じように理解されている方がおられました。
病気や障害は悪いもの、克服すべきもの、という価値観ではないですね。なければないにこしたことはないですが、それによって守られている面があると思えるのは受容と共生です。
このブログの読者さんのなかにはカウンセリング的なお仕事をされている方が結構いらっしゃるようですが、そういう中身の年齢を意識して話されるといいのかもしれません。
私自身、私の現在の価値観で話してもしっくりこないだろうな、という相手もいらしたりしますので…。そういうことと精神が体験してきたこととの関係は多分あるんじゃないかな…。
噛み砕いて説明する必要があることとか、そういう場面もやっぱりあると思います。すべての人に同じ比喩では通用しないかもしれませんしね。そういうことはよく考えます。
精神年齢と言われるものの中にはそういう魂年齢も含まれているよなあ、というのが個人的にはしっくりきました。これからはそういう方向にも意識を向けてみたいです。死生観からして変わってきます。(理解しづらくなるとも言われてますが(^_^;))
潜在意識の中にあるものというか、たまにはそういう方向の意識を注意してみたほうがいいのかもしれないなあ、と思います。