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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

11年前から全然ブレていない自分に驚くー自分のブログを検証する

 

なんだかあっというまの気がするけど…

 

 11年前のブログから介護部分の内容をピックアップしているこのごろですが、ここで気付きがありました。

 

11年前でも私は私。基本的にはなにも変わっていないということですね。

 

これだけ長くブログを続けている人も少ないでしょうし、こういう検証(?)が可能なのも私の特権(?)だと思って読み返しています。で、この記事の内容はその後も何度か形を変えて書いたなあ、という記憶があるのですね。

 

要するに自己確認のために書いているとか、そういう感じでしょうか?基本的には自分を励ますのと、意志確認のために書いているのだと思いますが、基礎の部分は11年経っても全然変わらないというのもなあ…。成長していないのか??…いや、そんなはずはないと自分では思うのですが…。

 

 

この頃はまだ単極性のうつ病と診断されていて、パキシルSSRI)を飲んでいました。でもしんどさには変わりないから目茶苦茶ハイにはなっていなかったと思います。むしろパキシルのおかげで介護という重責に耐えられたのかもしれませんよね。

 

このあたりの文章はうつ病という自覚のままに書いています。よーく全体を振り返ると確かに波があるので、いまから思うと双極性2型だったかなあ、とも思えますが…。

お時間のあるかただけどうぞ… (^_^;)

 

 

11年前のブログからピックアップ

 


2006年1月26日

 

このごろとみに実感が強くなりつつあります。人生のプラスマイナスは終わりの時にきちんと収支の決済がつく、というのかな。プラマイゼロになるってことですね。

 

大きなラッキーばかりは続かないし、それに応じた見返りのようなマイナスはやはりあるみたいだし。宝くじに当たるのも、幸運で当たるわけではないそうです。むしろ不運で当たるものらしいですね。

 

実際に私の場合もなにかちょっとした不幸があった後に、ちょっとしたラッキーに当選したりします。このところ、あまり大きなくじ運がないから、今回の父の病気も最悪にならないですむかなあ…とか思ったりも。

 

もしも宝くじで何億円とか当たったら、家族の誰かが死ぬんじゃないかしら、とずっと思っていました。そういう法則を知っているお金持ちの人はせっせと社会に還元していますよね。多額の寄付とか、ボランティアとかで。

 

まあ、大きなものが入ってこないかわりに大きな不幸もないかもね、と思うと、人生不平等だなあ、って思わなくていいからなあ、と思います。激動の人生ってしんどいだろうな、と思うので、私はやはり波おだやかな人生がいいなあ、と思うのでした。

 


2006年2月4日

 

今読んでいる本「心という不思議」の内容によると鬱というのは自責の病なんだそうです。そういえば、って思い当たる部分は多々ありますね。

 

まず理想なのが自分自身の「元気な時の状態」だったりするんですよね。「つまりやりたいことはいっぱいあるけど、それがそれなりにこなせていた自分」、意志と行動の間にほとんど矛盾がない状態が理想なんですよね。だから元気だった頃の自分自身に比較してしまって、現在の自分はなんて腑甲斐無いんだろうか、とすぐに思ってしまうのでした。

 

自分の頭の中には「普通の人以上のことが出来ても当たり前」みたいな感覚があるんですよね。かつてはそれが可能だったから。でもそれが出来ないのがものすごく悔しいというか、哀しいのです。

 

過去の自分の3割とか、半分でも出来るなら、それでよしとしなさい、と言われるのですが、頭ではわかっていても心が納得出来ないんだよね。困った性格だと思います。こういう性格だから鬱になるんだろうな。自分の理想と現状のギャップを埋めて、それでも納得出来て、満足出来るようになるにはどうしたらいいんだろうか?と今でも悩んでいます。

他の人が「もう充分」と言ってくれても、充分じゃないという基準は自分の中にあるので…。難しいですね。

 


2006年2月11日

 

昨日リハビリの先生が首の後ろのところを軽く指圧のようなことをしたら、それまで前屈みになっていた父の背中が伸びました。びっくり。車椅子から落ちそうな状態だったのに、わりとしっかり座れるようになっていて、それも嬉しかったり…。毎日ささやかなことで一喜一憂してますね~。

 

しかしながら…。私が言うのもなんですが、うちの両親は結婚五十年経ってもいまだにラブラブな夫婦なんですよね。今朝も病院に行く前にたっぷりとのろけを聞かされました。母としては父の世話を他人に任せるようなことはしたくないんだろうなあ…、と再確認。

 

この親の子に生まれたのもなんかの意味があるのだろうし、しんどいけど、これからもとことん母の意志を尊重するべきかなあ、と思いました。母が気がすむまで、もう限界だと諦めるまで、ここは私もとことんつきあうべきかと。…かなり開き直りですね。そういう心境になりました。

 

いろいろとみなさまにご心配おかけして申し訳ありませんでした。これからも「しんどい」というのはおそらく書くと思いますが、もう愚痴こぼしはやめようと思います。とことん、やれるだけやってみます。いまだに限界を感じつつ倒れないですんでいるのは、まだ身体に余裕があるからかなあ、と思いまして。

 


2006年3月1日

 

サイト五周年も近いということで、このごろ困難に出逢うたびに思い出す言葉があります。手許に本がないし、正確に思い出せる自信もないですが、それは木原敏江さんの名作「摩莉と新吾」の中の台詞。かつて新選組の土方さんの恋人だった蓉姫さまの晩年の感懐です。いろいろと悩んでいる摩莉くんへのアドバイスのひとこと。

 

「人からみればどんなに馬鹿なことでも、生涯貫けば本物になるんですよ」という台詞です。

 

たぶん、正確ではないです。忘れっぽい私のことだから。でもこれを読んだ二十代の若い頃の私はいたく感銘を受けまして、現在でも折に触れて思い出すのですね。

 

「生涯貫く」という意志の強さと純粋な想いに共感したのですね。まあ、人間がやっていることなんて、人から見ればそんなに価値があるとは限らないことが多いですよね。仕事にしろ、趣味にしろ、恋愛にしろ。

 

それでも自分自身が「それがとても大切」だと決めたことを生涯ずっと賭けて貫くことは、とても強い意志も必要だし、意義があることなんじゃないかなあ、と思うのです。

 

「想い」を芯にした行動を続けること。それを死ぬまで手放さないならば、やはり「本物」になり得るのだと信じています。傍から見ればどんなに愚かしいような愛であっても、真心を貫くことはとても大切なことのように思えます。

 

人生には本当にさまざまな障害がありますが、それにめげそうになるたびに、この言葉を思い出して勇気づけられている私です。人から見た価値観なんてどうでもよくて、自分が納得出来ればやがてまわりの人をも納得させる生き方が出来るのかもしれない、なんて思いながら。




何度でも再確認すること

 

このセリフ、「人からみればどんなに馬鹿なことでも、生涯貫けば本物になるんですよ」は、11年後のいま現在でも私の指針です。11年経っても変わらずに続けていること、きっと死ぬまで続けるであろうこと、は私の「本物」なんだと信じてますので。スケールは自分の一生なんですよね。

 

すでにお絵描きはそれだけ続いているし、読書もしかり、この調子だとこういう雑記の文章も生涯続きそうな気がします。万年筆で手書きの手紙の時代に比べたら…。キーボード打つのなんて楽だもんね (^_^;) ネタは幸いに尽きませんしね (^_^;)

 

貫いて、私にしか出来ない「本物」を作り出すのが生涯の目標です (^_^)

 

それでいながら、ちょこっと人助けが出来ればいうことないなあ、とも思っています。

 


他の人にはたいした意味がなくたっていいんだよ。私が「悔いはない」と死ぬ時に思えれば、きっとそれが充実の一生だったんだと思います。父の死を看取って、母を介護して、それでやっぱり間違いないと確信しました。だからこれが私の死ぬまでの指針です (^_^;) 11年変わらない(実際には20代の時から変わってないわけだから)から、この先も変わらないというのは確実ですね (^_^;)

 

私は私をオリジナルに生きて、オリジナルのままに死ぬのだ。それでいいのです。(思わず「それでいいのだ」って書きたくなっちゃった (^_^;))

 

 

ちょうどその時に描いていた作品たち。どんなに大変でも描くことはやめません。これは私にとっては一番効果のある薬なので…。精神安定剤だし、希死念慮も止めてくれるし。

 

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そういえば…。また展示会のお誘いをいただいています。一応地元ではあるけど…。うーん…。どうしようかなあ、と悩み中です。いつか個展も出来たらいいけど…。

 

 

 

 

 

 

 

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