ものごとにはかならず光と影の両面がある
どちらか一方だけを見ていては 正しい形は掴めない
かならず 両面から眺めてみて 光と影が絶妙のバランスを形取る位置
その場所にこそ もっとも真実に近いものと もっとも美しいものが
存在するのではないだろうか
…というようなことを、ふと思った。
私の姪っ子は小学生の学習発表会で千羽鶴のエピソードで有名な佐々木禎子さんの役をやっていました。
私もかつては幾度となく折ったことがあります。クラスメイトのお見舞いに教室じゅうで折ったこともあるし、近いところでは数年前に伯父の手術中に従姉が待合室で折っていたのを手伝ったこともありました。まだ母も元気な時でした。手持ち無沙汰解消にはちょうど良かったですが、その後、伯父の病室に千羽鶴が飾られていたのを見たことはありません…。…あれ〜…??
折った経験から言いますと、確かに「鶴を折る」という行為は祈りや願いを込めやすいのですね。指先から伝わるような気がしますものね。折っている時には確かになにかの力が働いているような気がします。
だけど、千羽になったものを見ると、そういう感じとはちょっと違うように思えてしまいます。
これは過去に被災経験がある人たちの声のようですが、なるほど、と私は読んで納得しました。本当に必要なものと不要なものが明記されていたらありがたいよね…と思って見てたんですが…。でもこの千羽鶴に対して怒りの声があったらしいです。
ツイッターだから極端な表現が多いですが、別に自分が折ったわけでもない人たちが怒ってるみたい。不思議…。
本当に考えたら、邪魔だと思うよ。避難所とかに来たらどうしようもないでしょう。軽度な被災で済んで片付けようかと思っているお宅だったら、やっぱり邪魔だよ。それでなくてもゴミが山のようにあるのに…。それ以外役に立たないゴミをもらってもさ。まだしも「これ折りました。頑張ってね」と写真送ってもらったほうがありがたい気がします(ーー;)
小さな子供とかお年寄りも折ってくださったら、それはすごいありがたいし、嬉しいことなんだけど、そはそれとしてやっぱり「邪魔」という事実はどうしようもないかもしれません。私ならやっぱり写真に残して「ありがとう、ごめんね」と言って処分しそうです。いままでの被災者の声ってやっぱり正直だと思うよ。
たとえば普通の折り紙じゃなくて、実際に生活に利用できるもので出来ているとか、そういうのなら別ですが、読み終えてしまった漫画とか、ヘッドフォンで聴ける音楽とか、子供たちが退屈しないようにちょっとしたボードゲームとか、不要になっても処分にあまり悩まなくて、無聊を慰めるようなものがいいんじゃないかと思うんですけどね…。賞味期限に余裕があるちょっと甘いものとか…。むしろ折り紙そのもののほうがいいよな。遊べるし。
自分がいらないものは人もいらない、っていうのが基本かもしれません。
もしも私が病気になっても千羽鶴はいりませんから。どうせなら折る前の折り紙ください。ハサミも。そのほうがいろいろ楽しめるし。気持ちはそこでありがたくいただいておきます(^^)
本やお絵描き道具ならもっといいです(^_^;) 気分転換や慰めになるのは「自分がなにかをやること」によって生まれるので、邪魔な鶴は写真だけでいいです。
どんなにしんどくても(ここ3、4日は私も寝てばかりいます)「なにかをやりたい」という気持ちはあって、それだけが自分が行動する原動力になっているのかもしれません。被災地の人たちがそういう気持ちを忘れずにいてくださるといいなあ、と願いつつ…。