もしかしたら、先生の余裕があれば臨時にマッサージの予定が入るかもしれない、というお返事待ちです。本当は今日は予定外の日なんですが、このあいだあまりに凝りがひどかったから、先生の提案で…(^^;)
でも世間は今日もお休みなんですよね。まあ、上手く先生に余裕があればラッキー、という感じでしょうか(^^;)嶺
介護関係のお仕事の人には世間的な休日が無縁になってしまいますし…。基本的に介護に休日はないようなものですよね。それでも可能なことならば、在宅で介護出来れば、それも人材に余裕があればそれが一番ベストだというのが現状です(ーー;)怜
この先にもっともっと老人が増えていくのは本当に明らかなのに、このままではどうなることやら…と思います(ーー;)蓮
私はまだ無気力から脱出出来ていませんが、これは無力感というのも大きいのかなあ…と思えます。
最期の一息まで充分に看取ることが出来た父の場合などは、本当に理想的な死を迎えたと言えるのかもしれません。
が、ある程度の年齢まで生きて、それなりの病気で死を迎えるというのと、突然の予期せぬ死、というのは本当に納得出来ないことだろうと思うのですよね。
それが天災とか、あるいは事故とか、若い人でも命に関わる病気だとか、そういう原因であればまだいくらかは納得出来ることもあろうかとは思えますが、そうじゃない、本当に悪意による暴力的な死、というのはやはりなかなか得心が出来ないのが当然だと思います。輦
今の時代ですと、日本国内においてもそういう事例があまり他人事ではなくなりつつあります。本当に哀しいことですが…。無差別殺人のような事件も増えつつあります。自然災害も増えてきております。
この先は「いつ、なにが自分に(もしくは親しい人に)起きてもおかしくないかもしれない」という危機感はどこかに置いて置かなければいけないのかもしれません。蓮
私も考えているつもりでも、まだまだのようです。先日ここに貼り付けた詩のことにも、再度心構えが必要になるのかもしれません。どうしたって、残される立場のものには後悔がつきもののようですし…(ノ_・。)輦
劣 たった一つの言葉が、もしかしたら誰かの心を救うことがあるかもしれません。また時として、言葉はナイフよりも鋭く誰かの心を傷つけるかもしれません。
直接逢って話す場合は、微妙な感情やニュアンスを伝えることも可能ですが、それが電話からメールへ、さらに手紙の文章などになるにつれ、その感情を伝えることが難しくなりつつありますね。嶺
特に断定の形で文章を書きますと、時としては実際に話す事よりもきつい印象で受け取られる可能性もあります。怜
昔、やはりそういうはっきりした言葉遣いの文章を書く友人がいて、彼女もそれゆえに誤解されがちなタイプの人だったからです。日本語も難しいな、と思いました。蓮
そういう微妙なニュアンスを少しでもソフトに伝える手段として、あるいは絵文字が発達するのかな?と、ふと考えてしまいました。嶺
言霊(ことだま)の国です。言葉には生命があります。哀しいことに限界もあるかもしれません。が、本当に気持ちを込めることが出来たなら、本当の気持ちを伝えることがもっとたやすくなるのかもしれません。
言霊は大切にしたいものです。烈