特養に人が多いと活気を感じる
昨日は母のところに行ってきました。
昨日の特養は人が多めでした (^_^;) ホントに誰にも会わないくらいに人が少なく感じることもあるんですが…。
でも昨日は医務室の看護師さん数名、先生とケアマネさん、それとお掃除スタッフと介護士さんは部屋に2、3名。
それだけ出会うとなんとなく充実感がありますね。
加湿器もちゃんと水を入れてもらってあったし。痰吸引の実習の書類の紙が違ったというので書き直ししたのとか、新しいパジャマはタンスにしまって、そういえば前開きのインナーも足した方がいいかな、と思います。半袖で年中いけそうな感じ。(帰宅後すぐに発注しました。前開きマジックテープは介護用になりますけどね)
叔母の手紙を母に読み聞かせ。このごろ「はよかえり」も言ってくれないからちょっと寂しいかな。徐々に言葉も出なくなるんですね。意思の疎通は出来ていますけど…。言葉って話す機会が減ると忘れて行くのかもしれませんね。食堂にいれば、まだ誰かと話す機会はあると思うけど…。
で、帰宅後疲れて横になっていたら、夕方に相談員さんから電話があって、来月3日に胃ろうの交換だということですね。手術扱いなので、家族も行かないとダメなんですね。すぐ終わりますが…。まあ、土曜の午後だからいいかあ…。それでももう半年経ったんだなあ、早いですね…。
「死にたい気分」とも長いおつきあいだな
私の「希死念慮」にまではいかない「死にたい気分」は中学生の頃からのおつきあいになります。数十年。
で、これだけ長くつきあっていると、その気分の正体が自分でもわかるようになります。自分が嫌いだとか、具体的に落ち込んだとか、そういう理由ではありません。
私の場合はとにかく「疲れた」というのが一番ですね。身体的な疲労感は休めば回復が可能ですが、主に精神的な疲労感は、日頃相当頑張ったあげくにその結果としてくるものだから、防ぎようがなくて、「とにかく疲れすぎたから休みたい」「休みたい→自分を取り巻く世の中すべてがしんどいという厭世観→死にたい」になるのだと思います。
私の特質らしい「冷静沈着で現実的な思考で分析してもそういう感じ」。それが数十年続いているから、「休みたい→死にたい」になるのが一時的な脳のバグだとも思いづらいですね。
アダルトチルドレンとか発達障害でもないのに、生きづらいと感じることは、この世の中との違和感みたいなものなのかもしれません。
まあ、冷静だから、ちょっとやそっとのことではパニクったりしないで、ちゃんと生活を見ている、っていうのもありますが…。大雑把な家計簿とか自分がつけているから衝動的な買物は出来ないなあ…。あとで困るのは眼に見えているし、なによりも借金するのが嫌いな性分なので…。
そういう現実的な対応を家族3人分きっちりやっているから、輪をかけて疲れやすいことはあるかもしれません。
薬は多分、休養と時間しかないのかも。この症状とつき合いが長いだけに、焦っても慌ててもどうしようもないのは自分でわかってるし。…私ってこういう時まで冷静なんだよね…。まあ、それが長所だと思って、しばらくあんまり無理しないようにしていようと思います。あとは時間が一番のお薬だし… (^_^;)