いつものように…
母のところに行ってきました。
いつものようにわりと元気で、まだ朝食の途中でしたが、わりときちんと食べていて(食べさせてもらいながら)変わりなく顔色もよかったので、また10分弱しかいないのに「はよ帰り」と言われて帰ってきました (^_^;)
いつものように帰りにスーパーで買い物をすると、結構な荷物になるので、タクシーつかまらないと大変。なんにしても疲労感がどーっと募ります。今日のお弁当と明日のおかずと、材料ともろもろ…。一人で持つには限界がありますし…。
そういえば弟が私の自転車を見て「タイヤの溝がなくなってる」と言いました。うん、それ知ってたけど。「そのうちにこけるで」と言いますが、タイヤ交換って高いんだよ。安いところでもきっと5〜6000円くらいすると思う。そうするともう新車買った方がお得じゃないかなあ…。電動アシスト欲しいけど、高すぎるしね。
眼鏡とか自転車とかは必需品だから困ります (ーー;) 浴槽のコーティングも悩みつつ、出来ずにここまできてしまいました。穴が開いたら遅いと思うけど、ホーローのチューブで自分でちまちま補修しています。おかげで表面が激しく凸凹しています。これもリサーチした限りでは10万仕事になるので、なかなか思いきれないのですね。
築50年以上の古家。人間もそうですが、歳を取るともうあちこちが痛んでくるものです。それが自然の摂理ですが、でも補修にはお金がかかるのが悩みです (ーー;)
いつ「魔が差す」かはわからない
タクシーを待つ間、ぼーっと空を見上げていたら、なんともいえない不可思議な気分になりました。
これは脳の誤作動だと考えてもいいような気がするんですが…。
でも電車に飛び込む人も本当にふらふらと衝動的なものだと言っておられますし…。
思えば私はもう随分長い間、このような種類の気分と長くつき合ってきた気がします。それこそ50年近くですね。中学生の頃などはこういう病気が存在するとは想像もしてなかったし、知識もありませんでした。ちょうど母が内科のかかりつけの先生に「あんたはもう精神科に行くか、出家するかしかない」と言われていた頃です。
そのへんで影響はあったかもしれませんが…。でも「うつ病」というのが広く認識されたのはまだ新しいというのはこの記事にもある通りですね。
1990年代後半…。ちょうど阪神大震災が起きたあとくらいからですか…。たしかに「もしかしたら…」と私も思うようになったのはそのころからかもしれません。
私は2002年頃までは働いていましたが、やはりいま感じているような「重篤な疲労感」と「希死念慮」に支配されて、次第に動けなくなり、それで退職したのはいいけれども、やはり家の中でもしんどくてごろごろしてばかり。
父が見かねて、「なんとかならんか?」と言ったので、母が精神科に引っ張って行ってくれたのですね。その時はいきなり予約無しの初診だったので、一番あとまで待ちました。(初診は時間がかかるので、そうなりますね)そのあいだずーっと泣いてたから、まあまともではなかったなあ、と自分でも思います。
当初はやはり「うつ病」だということになりました。当時の32条のこととか、障害年金のこととか、先生と窓口の方々が全部教えてくださって、自立支援の手続きもしていただいて、これらは非常に助かりました。きっと「自分でやれ」と言われてもいまみたいにまともな手続きが出来なかったと思います。
それから8年半、最初はトフラニールをメインとした抗うつ剤治療と、次にはSSRIのパキシルがメインになりますが、途中からは弟も通院に加わって、二人とも薬の効果が出ない、これはもしかしたら双極性2型障害ではないか?ということで先生に謝られて、そこで初めて双極性障害の治療になることになります。
それでも悲劇は減らない
この記事にも書かれている電通の問題はいまだに改善されておらず、哀しいことにまた被害者が生まれてしまいました (T-T)
私でもこれだけ長い間病気とつきあってきても、いまだに自分でもはっきりと説明も分析も出来ないことの方が多いのです。でも世の中には肉体的な病気でも似たような現状にあるケースは数えきれないのではありませんか?
「外からは見えない」「数値ではわからない」からといって、それが「ない」とは言えないとは思います。ましてや当事者は本当に命がけで取り組んでいるわけですから、それに対して「理解がない」とうのは人として、組織人ととしても問題がすぎますよね。
このあいだの糖尿病は自己責任というのとも繋がっていると思います。(昨日、私も長谷川氏に本気の謝罪要求をする書名をしてきました)難儀な世の中だなあ… (ーー;)
これだけ長いこと病気とつき合うのって、もう本当に疲労困憊するんです。それでも生き残れる人っていうのは本当に強くないと出来ないんじゃないかと思います。応援までは望まなくてもせめて理解は欲しいよね。