いま現在、なぜか仕事が3つほど重なっていまして、気分的には忙しいのですが、多忙対応みたいに鬱がましになっております(^_^;) 死神の相手をしている暇がなくなって、ありがたいというべきか…。たちまち睡眠時間が短くなる影響も出ていますが、まあ、これはしようがないかもしれません。やらなきゃいけない時は頑張ります。
でも3つの仕事の合間に、いろいろな待ち時間が出来るので、そのあいだに買い物に行ったり、これを書いたりいろいろしている次第です。本当に鬱はどこへ行ったやら?? また反動が来ると怖いですが考えないようにしよう(^_^;)
肩も背中も身体はもうバリバリです。午後にマッサージの先生が来てくださるのが待ち遠しいです(ーー;)
今朝、Facebookの方で見かけた記事なんですが、こちらにも持ってきました。
日本というのは島国であるからか、自分たちとはどこか違う相手に対してものすごく排他的ですよね。海が天然の要塞になっているから、ヨーロッパみたいに陸続きの侵略というのがほぼなかったわけで、文化とかにはすごくおおらかなんですが、「人間」という単位で見てみると、逆にとても排他的ですね。
外の世界から来る人たちは違う文化や生活習慣を運んできて、いままではそれらのものを取捨選択してアレンジして日本的なものとして取り入れるような寛容性があるはずなんですよね。
それなのに、どうして人に対してだけは心が狭くなるのかなあ?と思います。その対象は「マレビト(外からきた人)」だけじゃなくて、同じ日本人のあいだでも現れますね。この過剰な反応はなんだろう?といつも思います。
そういうことの端的なものが学校でのいじめ問題にあるんじゃないのかなあ?
この国で「少数派であること」「みんなと違うこと」を選択するというのは非常に勇気と強さが必要とされます。時としては武器を持って戦うくらいの覚悟もいるかな。(武器というのは比喩ですが)
私自身がまさしくその「みんなと違うこと」を子供の頃から痛いほど感じて生きて来た人間なので。いじめに遭わなかったのは対する武器や味方をもっていたからだと思います。
でも「みんなと違う」それを自分で選択する場合はまだしも、自ら望まなくても否応なしに「みんなと違う」ことだって多々あるわけです。体質的な弱さとか、学習の遅れとか、ちょっとした、一見なんでもないような弱点が過剰に「違う点」だと見做されてしまうのですね。
ただでさえ、輪からはみ出すことに辛さを感じていたら、輪の集団からの攻撃は致命的です。輪の中に入りたくても入れない、入ろうと努力しても撥ね返される。行き場がありません。大人でも辛い状況です。ましてや子供にはもっと辛いでしょう。
子供にとっての居場所は家庭と学校にしかないのですから…。そこからはじき出されたら、たちまち居場所がないと思わされます。どこに行けばいいのかわからない。この世に居場所がないという絶望に至ってもおかしくないと思います。大人ならまだしも逃げ場がありますが、子供の場合はね…(ーー;)
なのにそれを見抜けない大人がいる。自分も輪の中の安全圏しか知らない人なのでしょう。「学校」という場が舞台なら、輪の中に嵌まらないない教師が必要です。SOSが聞き取れるのはそういう人だけかもしれません。でも、そういう教師もまたはみ出すんだよね。同じ境遇の大人にはしっかりと踏みとどまって、子供たちに手を差し伸べて欲しいと思いますが、でもそういう「理解者であり得る」先生もまた精神を病んだりしますから…。
人間なんてひとりひとりみんな違うのが当たり前で、本来の教育というのはそういう個性と長所を伸ばすべきであると思いますが、なかなかそうならないのはきっとそうなると不都合な人たちがいるからだろうね。そういうのがつまりはいつの時代でも政治に結びついてますよね。
いじめを減らせない政治のあり方が弱者や少数派に対して優しい政策をするはずがないじゃないですか。昔の身分制度などからも大元はあると思うな。巧妙に仕組まれたそういうシステムが根底にあって、それにのっかってしまって疑問を感じないのは本当に危ないと思います。
日本人の独特の精神性とか政治とか、みんな本当に繋がってるよね。「違うもの」「少数派」「異端者」に対しての酷薄さ。不寛容。私はいつも不思議でした。行事とか宗教とかにはものすごく寛容ですよね、日本人って。でも「人間個人」を認める寛容の気持ちってずっとレベルが落ちるんですね。これではいじめはなくならないぞ。
私は日本のそういうところがとても苦手で、だから学校は嫌いです。
はみ出すしかない子はさっさと学校なんて場所から逃げちゃえ!!学校にそんなたいした値打ちはありません。死ぬならさっさと逃げちゃえ。可能性はもっと別の方向にあるからね。