私が子供だったころ(主に1960年代)
私が子供の頃、まだ上京区に住んでいた時ですね。
世界のあちこちでは、核実験が行われていて、「放射能の雨に濡れると頭が禿げるから、傘は必ずさしなさい」と学校からもやかましく注意されていました。ほんとだよ。
麻疹、水疱瘡、おたふく風邪はいつも弟がさきにかかって、私は弟から感染して罹患するパターンでした。麻疹と水痘はまだ学校に行く前にかかったと思うけど、おたふく風邪は大きくなってからで、弟が1年生、私が6年生の時でした。
何年か前に麻疹が流行した時に、ある大学では教師と職員の抗体を検査したそうです。
若い先生方が「自分は10でした」「15ですね」と話している中で、私と同い歳、あるいは同世代の先生方は「桁が違う。3桁の数字だ」「800とか900とかですね」と、それについてお医者さんに確認したところ、「それはリアルに感染されたわけですから、ワクチンの抗体とはレベルが違って当たり前ですよ(^_^;)」と説明されたとか…。
まあ、ひとつ間違えばそういう病気で死んでる可能性もあったわけです。
戦争体験世代の親たちとはレベルが違いますが、思えば私たちの世代もよくいままで生きてこれたなあ、という感慨が迫ります。
「もう、ここまできたら長さじゃなくて、日々の充実度ですね」「いかに充実させて生きるか、ですね」というのが私たち世代の偽らざるところかもしれません。
生命のバトンと想いのバトン
若い世代、とりわけ子供達というのは「未来」の具現です。子供たちのために残した大切なものもたくさんあります。
私の甥は現在25歳ですが、義妹が甥を妊娠した時、弟はすでにかなりメンタルが不安定な状態だったので、二人目はいらない、と言ったんですね。実際に子供を作るつもりではなかったのに、予想外にできてしまった(^_^;)
だから義妹もどうしたらいいか悩んでいたんですが、「どうしてでも育てられるから生んだほうがええ」と言ったのが母。「そこまでしてもどうしても生まれてきたかったんと違うかな」と私も言いましたが、そうやって生まれた来た子のために、両親(つまり祖父母)はあらゆる協力を惜しみませんでしたし、またこの甥がとてもいい子で、「生まれてくれてありがとう」と家族はみんな思っていました。
それゆえに離婚後も成人まで、祖父母は援助を欠かしませんでしたし、親しい人たちには「生きたお金の使い方をしたなあ」と言われました。
まあ、その甥が現在は消防隊員&レスキュー隊員(救急車にも乗っているらしいけど)で、姪は介護士で、本当に多くの人のために働く仕事をしてくれていることが一番嬉しいです。
あの子達が頑張って、元気でいてくれると、まだ未来は絶望しなくていいような気がしてきますし…。そのための足がかりをきちんとつけておきたいなあ、死ぬまでに、と願ってしまいますね。