昨日あたりから足がむくんでいる気がします。この季節には珍しいな。気が滅入ると身体の方もあちこちが不調になってくるみたい (ーー;)
家計を鑑みて、毎日のようにコンビニに行くのはやめないといけないな、と反省中ですが、母がスイーツの類いを欲しがるのと、昼も夜もとてもじゃないけど作っていられない、というのと両方あって、夜は暖まるカップ麺、それと菓子パンということがほとんどなんですね。なにかいい代替案(手間もお金もかからないの)があればいいんですが…。
夏はアイスクリームが欲しくなるしな〜。 その母がなんでも2口か3口しか食べないで、残りをゴミ箱に捨てるという感じなんで、毎回すごく腹が立つ次第。なんでだろう??好きなものでも「最後まで綺麗に食べきる」というのを忘れてしまった気がします。おかげでベッドの下は食べ物の屑だらけで掃除も追いつきません (ーー;)
食べ物に対する勿体ない姿勢ってなにが原因なのかなあ?やっぱり認知症?? いずれにしてもスイーツは生もので買い置きが不可能なので、行くとついつい私も自分の食べるものを買ってしまう次第 (ーー;) 毎日コンビニで1000円以上使っていたらとても足りないなあ…(>_<)
桜exhibition向けに描いていた作品がなんとか形になりました。昨日ツイッターでいまいち納得出来ないとつぶやいていましたが、一晩過ぎたら「これでもいいかもしれない」という気分に変わりつつあります。いずれにしてもサイトに載せられるのはまだ後日になりますが… (ーー;) なにも他の憂いがなく創作に集中出来るのって本当に幸せなことなんだよなあ…、と痛感する… (ーー;)
やはりツイッターのまとめで拾ったイマジナリー・フレンドの話題。(なぜか1/31のツイートがこちらにまとめられていませんでしたが)
“見えない友達” イマジナリーフレンドが実は子供の発達に重要だった
子供だけじゃなくて、大人になってもこの種のイマジナリーフレンドを持ち続けていることが創作に関わる才能として必要なんじゃないかと思えてきます。実際に私には何人ものキャラクターとして内在しているので、それがきわめて自然な形になってしまっています。
物語を紡ぐ人、小説や漫画を描く人は特にその傾向が強いかもしれません。まず頭の中で彼らが自在に動いてくれないと話しも進まんですもんね。特定の作品に関わっている最中は作者の周囲に違う次元が存在していて、作者はいつでも(しばしば無意識に)そこにアクセスしている、という感じ。
他の職業でもクリエイティブなことに携わっている人は、「フレンド」という形を取らなくてもなにか別の形で「イマジナリー」というか「イメージの核」のようなものを持っている気がします。やっぱり頭の中が白紙ではなにも生まれてこないわけで。そういうものをいくつになっても持ち続けていることは才能だなあ、と思います。
ですから子供の中のイマジナリーフレンドも生涯の財産に発展する可能性もあるわけです。そっと大切に見守らないとね (^_^;) 自分の中のキャラクター、基本はやはり自分に似ていて、さらに理想を加えたものであるのもそのとおりなんですが、悪役とか描くと、そのキャラもなんとなく愛着と理解が深まってくるから面白いものだと思います。いやなやつでも自分の一部かもしれない、という目線で見ると、なんとなく理解も出来たりするのですね。で、またそれが描けないと面白い話も描けないのです。