丹 今朝、6時前に目が覚めたら、すでに母が起きて、台所でごそごそと食事の支度をしてました。
あまりの早さに驚いたら、早朝にふと思い立ってシャンプーをしたら、そのまま眠れなくなったのだそうで…(ーー;)(そりゃすぐに乾かないしなあ)で、結局私もそのまま起きてしまいました(ーー;)まあ、洗濯とか出来たからいいけどね(^^;)嶺
今日はマッサージの日なんですよね。一番に先生も来られると思うんですが、まだ時間がありそうなので、だったら先に日記でも書こうかなあ、と思った次第。
昨日はなんとかキャラクターの線画も出来ましたので、午後はぼちぼち着色にかかれたらいいなあ、と思っておりますし…。
昨日のニューヨークタイムズの写真を見てから、また少し気持ちの変化がありました。
健康で、問題なくいつもの生活、いつものお仕事が出来る人はそれが最善だと思いますし、非常に大切なことだとも思いました。
が、もう少しの時間、被災地で家族を亡くした人たちの気持ちに寄り添えるような時間があってもいいような気がしまして…。その分だけもっと祈りたいという気持ちが強くなりました。烈
そういう時に下のようなビートたけしさんの言葉に触れて、さらにその思いを強くしたんですよね。
以下、部分的に抜粋してます。
http://naokitree.blog33.fc2.com/?mode=m&no=129
『こういう大変な時に一番大事なのは「想像力」じゃないかって思う。
今回の震災の死者は1万人、もしかしたら2万人を超えてしまうかもしれない。テレビや新聞でも、見出しになるのは死者と行方不明者の数ばっかりだ。だけど、この震災を「2万人が死んだ一つの事件」と考えると、被害者のことをまったく理解できないんだよ。』
『人の命は、2万分の1でも8万分の1でもない。そうじゃなくて、そこには「1人が死んだ事件が2万件あった」ってことなんだよ。』
『一個人にとっては、他人が何万人も死ぬことよりも、自分の子供や身内が一人死ぬことの方がずっと辛いし、深い傷になる。残酷な言い方をすれば、自分の大事な人が生きていれば、10万人死んでも100万人死んでもいいと思ってしまうのが人間なんだよ。
そう考えれば、震災被害の本当の「重み」がわかると思う。2万通りの死に、それぞれ身を引き裂かれる思いを感じている人たちがいて、その悲しみに今も耐えてるんだから。』
『逆にいえば、それは普段日本人がいかに「死」を見て見ぬふりしてきたかという証拠だよ。海の向こうで内戦やテロが起こってどんなに人が死んだって、国内で毎年3万人の自殺者が出ていたって、ほとんどの人は深く考えもしないし、悲しまなかった。「当事者」になって死と恐怖を実感して初めて、心からその重さがわかるんだよ。』
たとえば病死などで、家族にいくらかの心の準備期間があるならば、その痛みはほんの少しでもましになるかもしれませんし、あるいはそうではないかもしれません。
でも本当に天災とはいえど、さっきまで元気だった家族の手を離して、それきりになってしまった人も多いと聞きます。そういう人びとの悲しみを思うと、とてもじゃないけど、私には『頑張って』とは言えなくなりました。
悲しみを乗り越えて、さらに前向きに進もうとするためには、充分に悲しんで受け入れるための時間が必要なんです。その過程を逃してしまうと、あとあとでかえって深い傷を残すことにもなりかねませんし…。輦
燃料さえあれば、きちんと火葬にしていただきたいと思います。お葬式が必要な人にはきちんとそれもしてあげて。そういう儀式的なことは亡くなった人のためというよりは、残された家族の立ち直りのために必要なんだなあ、と思うんですね。
共に祈ることが残された人に伝わるといいなあ、と願っています。堪え難い悲しみを受け入れて、そこからしっかりと立ち直るために、やはりそれなりの時間は必要なんです。それも覚えておきたいと思います。