今日は朝からずーっとお絵描きしていて、素材も作ってようやくサイトの更新が出来た。季節先取りもいいところの絵ではあるけれど。本当に早く暖かくなって欲しいと願ってしまうよなあ。
一段落ついたところで、明日はぼちぼちバッグとかがまぐちとかの型紙も作らないと駄目だなあ、と思っていたりする。バッグの方の材料は2、3日中に揃う予定。がまぐちの方は口金の入荷が遅れていると連絡が来たけれど、もうどうせ寒いあいだはろくにミシン作業も出来そうにないし、全部揃ってから送ってもらうことにした。そういう具合に材料だけは揃いつつあるんだけど…。問題は私自身の「やる気」なのよね。鬱らしく、いつも「明日はやろう」と思っているんだけど、朝になるとそのやる気が失せていたりする。困ったものだと思う。蓮
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昨日の「京都スタイル」の話題に続いてしまうかな。
「いいものをほんのすこーし」という感覚は、たとえばファッションの指向にも当てはまるのかなあ、と思ってしまった。
京都の人間って、いかにも「ブランドが歩いている」感じの全身ブランドづくめとか、お金持ちだからといって、宝石をじゃらじゃら纏うことなんてしないだろうな、と思う。一目でわかってしまうものって結構みっともないと考えているのかもしれない。…これはほとんど私個人の感覚なんだけど。
全身ブランドとかじゃなくても、見る眼がある人にはわかる、高級なものをポイント的にさりげなく身につけるのって素敵かも。特に和服はそうかもしれない。私みたいに自分では着ない人間でもそれなりに眼は肥えていると思うのよね。
そういえばかつて伯母が健在で、従兄達も結婚する前、毎年お正月には伯父の家にお年始に行くのが通例になっていた。子供達にはお年玉をもらう目的もあるけど(笑)
で、まあ親戚一同が集まると、いつのまにか始まるのが大晦日の紅白の着物の品定めだったりして。昔は演歌歌手がたくさん出演してたからなあ…。女性演歌歌手の着物談義になってしまうのだ。
「○○さんの振袖は総絞りやったなあ。ああいうのは300万はくだらへんで」とか「××さんの着物と帯のトータルコーディネイトはセンスあるわ」とか、「あれはええ色やね」とか…。
もちろん歌に関する感想が出ることも少なくないが、着物好きの伯母が中心の場所では自然とそういう話題になった気がする。
「見る眼がある人にはわかる」「ええもん」にさりげなくお金とセンスをかけてみるのが心意気みたいな。たとえ普段はつつましくとも。京都の着倒れの正体は案外そういうささやかな優越感に彩られた地味なものなのかもしれない。劣