お互いさま おかげさま ありがとう

両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

理想論かなあ

いいお天気。でも今日も雑用と買い物で半日潰れてしまった。すごく実りがない気分。でもまだ一応明日も明後日も買い物、というか食料の買い出しに行かないと…。

うちの近所は買い物には結構不便だったりする。昨日、楠葉の駅の周辺に大きなショッピングモールが出来たというちらしが入っていたけど、そういう大型の便利な店鋪の開拓からは取り残されている場所なのよね。本当に年を取って、歩くのも不自由になってしまったような人たちにはすごく困る街だな。うちはまだたまに車で買い出しに行けるからましかなあ、とも思うしね。でも大きな店鋪はどんどん郊外に進出して、中途半端なこのあたりはいつも取り残されてしまうの…。困ったものです。

Web拍手ありがとうございます。

 …………………

なんとなく昨日の話題に続きます。

これは杞憂なのかもしれないけれど、女性を対等の人格として認識出来ない人には、その他の弱い立場にいる人たちのことも対等には見れないんじゃないかと思ってしまうのね。

もうフェミニズムの範疇に納まらないことになってしまうけど、例えば老人、子供、病気の人、他国(特にまだ経済的に発展が遅れている国)の人、障害を持つ人、家がない人、過去にいわれのない差別的立場に立たされた人などなど、そういう弱者の立場にどれだけなれるのかなあ、と思うんですよ。彼らの立場に立って、その人個人の人格を尊重するためにはかなりの想像力とか、共感能力を必要とされると思うのね。だけど、自分のごく身近にいる女性の、個としての対等な人格のことを思いやれない人にそういう能力があるとは思えなかったりするのだ。

たとえば仮にその人が政治家だったとして、その人が声高く福祉の充実とか、開発途上国援助などを叫んだとしても、もしもその人自身がかつて女性に対して人格を尊重しない行動をしていたりしたら、私はもうその人とを代表には選ばないだろうし、国民の代表にすることも恥だと感じるだろうと思う。

「個」の人格を尊重できないということは、自分が尊重されなくても仕方がないことだと思うんだけど。私はそういう人は尊敬出来ないし、おつきあいもしたくない。

でもこれって性別を越えて、人間としてかなり大切なことではないかと思うんですよ。

人間は弱いから、ともすれば自分よりも相手を見下げて優位に立つことでしか自信が持てないタイプの人だって少なくないのね。だから世の中にいじめが横行したりするわけで。自分よりも弱いものを見下して優位に立ったつもりでも、実はそのことがその人の弱さをそのまま現しているのだと思う。でも自分ではそれに気付かない、考えようによっては哀れで可哀想な人だよなあ。

小さな子供にも立派な人格がある。いくらわが子だからといって、心中の道連れにしたりする権利は親にもないと思うのだ。子供は未来からの客人(まろうど)だ。彼らに未来ある生を残すのは親の義務だと思う。

こういうことは結局、フェミニズムの観点だけに留まらず、教育や信仰や世界的な交流やすべての原点にあるんじゃないのかなあ。

誰しも「自分自身」は大切だろう。他者にも自己をきちんと一個の人格として対等に扱って欲しいと望むだろう。それはもう世界のすべての人がそうなんじゃないかなあ。

だからどういう立場にいる人でも、その人を自分と対等に大切に思う、というのはすなわち自分自身を大切にすることと同じだったりするのよね。必要なのは想像力、共感能力、そして思いやり。マザー・テレサは死の床にあるすべての人の魂を尊重し、彼らの生を肯定して天国に送りだしたという。…そういう気持ち。

ものすごい理想論になるけれど、社会全体がそういう意識を持つようになったら、みんなもっと息がつきやすくなるような気がする。だからまずは自分から、自分に出来ることとして始めてみたいと思うのね。難しいことではあるけれど。

どの人の中にもある輝ける魂と人格をきちんと認められる人間になりたいです。

Copyright (C) 2001-2018,Haruusagi All rights reserved.