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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

シンプルで大切なもの

クリニックから帰宅。行きも帰りもタクシーを使ってしまった。実は今年から身障者手帳の交付を受けて、市バスならば無料で利用出来るんだけど、そのバスを待つ時間が辛かったりするのね。結局、無料パスを利用してあちこち行けるくらいなら、そういうものはもらえないというわけだったりする。やれやれ。外からのストレスはないので、現在の不調は気候的なものだと考えるしかないようだ。あまり鎮痛剤を飲み過ぎないように、と言われたけど。我慢が辛いからつい飲んでしまうんだよね。なるべく我慢の方向になるように努力したい。しかし、私がPC関係のことだけは出来ているというのは唯一の救いだよなあ。はあ…ため息。

Web拍手ありがとうございます。 >モモさん、画像のお持ち帰り、ありがとうございました。あの作品を気に入ってくださる方が多かったので、今回はフリー作品にしてちょうどよかったみたいです(笑)

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昨日の宗教の話の続きになるけれど、一番の宗教の原点を忘れてはいけないと思うのね。イエス・キリストにしろ、ブッダにしろ、ただひたすらに市井の人々の間にあって、ごく普通の人々を救うことに生涯をかけて、彼ら自身はなんら見返りを求めていなかった、ということを常に忘れてはいけないと思う。

神仏の化身というか、象徴として祭り上げられることは、もしかしたら彼ら自身には本意ではなかったかもしれないとすら、私は考えてしまうのだ。

彼らが限りある命を終えた時にその大切な教えを後世に伝えたい、もっとたくさんの人々に広めたい、という弟子達の希望から、キリスト教も仏教も始まったのだと思う。

基本的にはその祖と同じように市井の普通の人々を救う活動が最重要事なんだけど、それだけに留まらず、象徴的な場所として教会や修行の場所を作ってしまったことから、「形」としての権威が始まってしまったような気がする。そのあたりから宗教の素朴な意義が曖昧になってきてしまうのね。

時としてその「宗教的な権威」を政治に利用したり、悪事に利用したりする輩も現れはじめるわけで。だからこそ、我々はもっともシンプルな形の信仰を忘れてはいけないと思うのだ。でなければ表面的には荘厳な建築物や偶像の形を取った「権威」だけに惑わされてしまう。

いまの世の中で一番シンプルな形の信仰を実践していた代表的な人はやはりマザー・テレサかなあ、と思う。他にも目立たない場所で本当にシンプルで一番大切な形の信仰を実践している人たちはたくさんいると思う。

そういう本物の神々は決して他の神々を排除したりしない。自分だけが正しいものだとは主張しない。あらゆる宗教の教義の中にもそういうものがあるはずなんだけど、ともすればそれを忘れがちになるのも、また凡夫たる人間だったりするんだよね。

他者への愛が身近な人々だけに限定されず、世の中のすべての人に及ぶような…、そういう博愛がなければ宗教者としては失格にならないだろうか、とも考えたりする。

私も一時期は出家願望があったりしたのだが、そういう信仰に最も大切な部分に気付いた時、自分にはとてもそういう資格がないと思い知ったのだ。どうしようもなく凡夫の身であることよ…。

けれどもそのシンプルな信仰の形さえ見失わなければ、まがい物の宗教に惑わされることはない。仏教にもキリスト教にも、その他の既成の宗教の枠にもとらわれることのない、もっと広義の信仰に気付くことが出来ると思うのだ。自らの身近に存在する神を見つける眼を失わずにありたいと願う。

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