この連休はなかなかの行楽日和が続いてますね。 氏神さまのお祭も無事に終わったようで、私は洗濯物が早く乾いて喜んでいます。
でも今日は腰痛だったりして…(汗)蓮 昨日あたりから、敷いてあるバスタオルまで全部取り替えるようなハードなおむつ交換が10回近く続いたもので…。さすがに腰にきたようです。私が入るスペースは狭い家だから、30センチくらいしか空いていなくて、そこで力が必要な作業するもので…。腰に湿布してますが、疲労感も消えないので、相変わらずごろごろしていて生産性が上がらない状態になっております。玲 姪っ子なども腰を痛めているのではないかしら。
リハビリの先生の話だと「ここのお父さんは幸せだ」そうです。昼間でも一人ぽっちにされている患者さんも少なくなくて、それはやはりそこの家の事情で仕方がないんだろうけど。身体が自由に動けないのに誰もいないのって、すごく寂しいだろうな、と思います。でもきっとこれからはそういう老人が増えるんですよね。自分も含めて。
この日記がほとんど介護日誌のようになってから、やはりアクセス数はかなり減りました。一時期のように1000を越える日はまずないですが、それだけに内容の暗さにめげずに毎日いらしてくださるみなさまに感謝しております♪撚 まだまだ日本も捨てたものじゃないよね、としみじみと思います。烈
★Web拍手ありがとうございます。
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もうかなり前に亡くなられたのですが、清水寺の貫長さんで100才を越えるまで長生きされた方がありました。私はその方の生前の講和のテープを聞く機会があったのですが、それももう20年以上前のことなのに、いまだに強く記憶している言葉があります。
「観音さんにはお姿がないの。そやから身近な人の姿と声を借りて現われはるの。家族とか友達とか知らん人かもしれへんけど、そういう人の姿を借りたはるのよ」
という言葉でした。神仏というものは身近に生きている人間の姿を借りて出現する。言い換えれば生あるすべてのものの中に仏性は宿るとでもいうのでしょうか。普段はごく普通の人間の中に突然に姿を現す神仏。それに気付くには受け止める側にも相応の感受性がなければいけません。
でもこの時の言葉は私にとっての素朴な「信仰」というものの形のかなりメインの部分を占めているような気がします。
カミでもホトケでもなんでもいいですが、人間やそういう小さなスケールを越えた宇宙的な大きな存在は確かにあると思います。でもそれは単なる宗派とか教義とか、そういうものに縛られない大きなものだと思うのですね。
だから私の感覚で言うと、宗教が原因の争いなんて、本当はすごくナンセンスなんですね。でも往々にして一神教はそういう罠に陥りやすかったりします。難しいですね。
我が家にも先祖代々の宗派とか菩提寺とかは存在します。が、私個人はここの宗派はあんまり好きじゃなくて、むしろ嫌いなんですよ。お墓さえなければ脱退したいなあ、と考えているくらいです。
いずれ遠からず親の死後を考えねばならなくなりますが、だから本当はそこのお墓には入れたくないと思ったりもします。戒名とかお経もさほど必要ではない気もしたり…。でも父自身は時々お題目を唱えたりしているから、やはり信仰はあるのかなあ、とも思ったり…。
どのみち、うちは無縁仏になるのだから、どうでもいいような気がしますけど…。現実の問題として、親の死後の供養やお墓をどうするか?はなかなか頭の痛い問題です。蓮 理想としてはお坊さんに頼むこともなくて、故人の好きだった音楽を流し、献花するだけの無宗教のお葬式っていいなあ、と思います。そして宗派などに関係のない墓地に埋葬したい、とかね。そういう理想が実現出来るかどうかはわかりませんが(汗)
自分自身はもっとシンプルにお葬式もお墓も不要だって考えていたりして…。もとの大極に還るだけ、という意識が大きいです。
動物はこういうことで悩まないし、死後の不安とか死の恐怖もないんだよね。頭脳がここまで発達してしまった人間にはこういう自身の存在を越えたものに対して悩まざるを得ない運命を背負ってしまったようです。
生と死と信仰と。人間だからこそ可能なこの精神活動にもそれなりの宇宙的な意味があるような気がして仕方がないのですが。