少しずつ運ぶ覚悟
明日以降の掃除用の荷物をこの間から作っていたら、なんだか結構大荷物になっています。スリッパとか雑巾とかエタノール使うなら手袋もいるよなあ、とか思っていたらなんだかどんどん増えちゃって…(^_^;)
掃除が済んだら精密機械や壊れたら困るものは自分の膝に乗せていくのが一番安全な気がして、きっとこの先もそういう荷物が増えると思います。やっぱりPC周りですけど。あとドール関係のものと。外付けHDDなんか数台あるから、かごか何かに入れて、エアパッッキンで保護して、膝に乗せて運ぶのが一番安全じゃないかなあ?
大事なもので、サイズが小さめのものは抱えていく。きっとそれがベストですね(^_^;)
食器なんかは割れても惜しいような上等なものは全くありません(ーー;) 余生は趣味に生きるというの象徴しているとか?(^_^;)
とにかく無事に明日が済まないと…。
— 藤本恭子/双極性2型障害と共生中 (@haruusagi_kyo) November 25, 2019
指定の日時にその場所にちゃんといる、というのがすごい地味だけど努力を要するのですよね。まあ、いままでに受診皆勤賞だけあって、応用は多少効くようですが。
大河の愛、小我の愛
さっきどこかで見た。「大我の愛は見返りを求めない理性的なもの」だとかで、見返りや感謝を求めると小我になっちゃうんだなあ。なんかわかる。
— 藤本恭子/双極性2型障害と共生中 (@haruusagi_kyo) November 25, 2019
…これって仏教??
気になるので調べて見たら、やはり仏教の言葉らしいです。
「小我」は本能のようなもので、それなりに大事ですけど、利己愛なので、見返りを求める愛なんですね。
「大我」は見返りを求めない愛だそうです。
私はあまり見返りを求めて動いたことはないですね。単に自分がやりたいだけ、できたら気持ちがいいから、という理由でやっていますし、それは最初から期待もしないので、割とすぐにやったことも忘れます。「誰かの役に立てた」という気持ちが残ればそれで十分なので…。
うちの親は老後は介護して欲しいとはただ一度も言ったことないけど、私自身が親の見返りを求めない愛情を十分に感じていたから、極めて自然に介護に入ったんですね。誰に強制されたわけでもなくて、ごく自然にそうするのが当たり前のことでした。これもお互いの大我だと思う。
そうじゃないパターンは滅茶苦茶わかりやすい小我の因果応報じゃないかなあ(ーー;)
言葉ってそうなりやすい。「育ててあげたんだから、老後の面倒をみてよ」と言う人もいますから…。それを言われるとやるのが嫌になるんだよね。見返りに期待して子供を育てるのはなんか違うと思う…(ーー;)
クライマックス近いかな?
で、今日は市営住宅の入居説明会に行ってきます。1日がかりかとは思いますし、帰宅後はリアルの今後の打ち合わせ。引越し屋さんもauひかりも待っててくださってますし、お風呂などの改装業者さんも…。色々大変。
とにかく頑張って行ってきます。