モニタの前で瞑想すること
私はMacを立ち上げると、毎回まずメーラーとブラウザを起動して、真っ先にメールチェック、それからアンケートやブログなどのチェックをすることがほとんどで、ほとんどの時間はメーラーとブラウザは繋ぎっ放しになっています。新着メールがあると通知してくれるのですが、これがわりとよく「気がつかない状態」になっていて、ふと見るとメールが数十通溜まっていたりすることがあります。
そういうのは大抵、左手にペンを握って作業をしている時です。お絵描きもですが、フォトレタッチとか画像関係に作業で左手を使う時はよく集中モードになります。
自分ではこれは瞑想に近いんじゃないかと感じています。あと読書に集中している時もそうだなあ…。あんまり雑念が入らない状態の時ですね。
自分の性質を考えるとうかつに本当の瞑想をするのが怖いのです。そんなにメンタル弱いと思いませんが、特に精神疾患のある人は、あっちに行っちゃって帰ってこれなくなる危険があると思っていますし…。そういうことをしなくても危険のない方法である種の境地に至れるのが創作じゃないかと思っています。
そもそもイメージなりアイデアなりが降りてこないとなにも出来ませんから… (ーー;) ペンタブのペンを握るというのが入り口かもしれないとふと思いました (^_^;)
…そういう最中に気付かないでメールなどのお返事が遅れたら申し訳ありません (^_^;)
…まあ、バレバレですが… (^_^;)
出来なくなることが増えるにつれて
昔、祖母や母に「針に糸を通して」と頼まれたものですが、面倒な時は針5本くらいに糸を通してまとめて預けておいたりしました。その時はなんとなくおかしく思っていたけど、ふと気がつくと、このごろの私、なかなか針に糸を通すことが出来ないのですね。これは眼が原因です。高校生の時から近視&乱視の眼鏡を愛用しているのですが、3、4年前から、眼鏡を外さないと読書が辛くなりました。
で、最近ですね。針に糸を通そうとしたらなかなか上手くいかなくて、それが思いのほか自分でもショックでした。それしきのことでショックだったのかといえばそれまでですが…。想定外にショックでした。
外見の変化による老化、というのはそれなりに諦めて開き直っていましたが、「それまで出来ていたことが出来なくなる」衝撃の方がずっと大きかったです。
頭の働きはそんなに変化したり落ちている気はしませんが、肉体的な変化は、特に「出来なくなった」ということが思いのほか堪えますね。
自転車でスピードが出せなくなった。そんなに多い荷物じゃないのに、バランスが取りにくい。階段を駆け上がるとか駆け降りるとかとんでもない。手すりを持たないと怖い。…などなど、若い時はなんでもなく普通にあたりまえに出来ていたことです。それが出来なくなった、というのはショックですよ。
双極性障害のために出来なくなったこともたくさんあります。でもそれは主に気力と関係が深くて、気力が戻ればもしかしたらまた出来るようになるかもしれない、という希望が残るものでした。この場合は優先順位をつけてやっていくしかありませんけどね…。
これに対して肉体的な老化とともに出来なくなったことは二度と取り戻せるとは思わないのですね。眼も耳もその他の機能も落ちていくのですから…。
私、病気のために出来ないことよりも肉体の老化のために出来なくなったことの方にショックを受けて落ち込みました。そして遠くない未来にそれがもっと深刻になる予想がつきました。
祖父母の介護の場合にはまだ実感が薄いと思います。祖父母と孫の場合には相当年齢が離れていますしね。私も祖母の時にはこういう深刻さはありませんでした。が、親の介護の時になると、親とはそう大きく年齢差があるわけではありません。母と私の場合なら22歳しか違いません。
否応なしに22年後の未来の自分を母の姿に見てしまうわけです。
そうして母が「自分でほとんどなにも出来ない」ことをわかりつつ、生きていてくれることを思うと泣けて仕方がないのですね。あと、自分になにが出来る親孝行だろうか?と真剣に考えます。本当なら在宅で最期まで看てあげたかったけど、それには限界がありましたし…。
少しずつ当たり前にそれまで出来ていたことが出来なくなる辛さを思いやってあげてくださると嬉しいかもしれません。
私もそういうことを思いつつ、母が生きていてくれるあいだに経済的な基盤を作りたいと足掻いて入るのですが、我が家の場合は弟のこともあって、なかなか思うように行きませんからもどかしいです。
どんどん出来ないことが増えていく状態でまだ足掻いていますが、頭は使えなくなったとは本気で思っていないのです。まだ残る可能性を捜し続けています。
いい点も加えれば…
あ、そうだ。歳を取ることで出来るようになったことももちろんあるんですよ。それはコミュニケーション。若い頃は恥ずかしかったことがなんでもなくなりました。
「いまここで言いたいこと言わんでどうするねん?」とか「自分の経験が誰かの役に立てばいい」とか思うと、自然と多弁にもなりますね。寡黙でいたって意味がないし、とか思うわけです。
誰に好かれようが嫌われようがどうでもいいや、って思ってしまう。「これは」と思った人だけに届くものだといいな、と願っています。