区役所でついでの用事を二つばかり済ませて、そのまま母のところに行ってきました。
顔を出したらいないなあ、と思いきや、ちょうど髪をカットしてもらっていたところでした。部屋で待っている間に、精神科の訪問看護ステーションに連絡の電話をしたりしていると、戻ってきました。
やっぱりすっきりしてますね(^_^;) 「二ヶ月でも三ヶ月おきでも、うっとおしいなあ、と自分が思ったらしてもらえばいいから」と言って、ケアマネさん(ちょうどそこにいらしたので)とスタッフの人にもお願いしてきました(^^)
入所当時はこんなに元気ではなくて、カットも半年置きくらいでせいぜいかなあ?と思ってたくらいなので、今のように元気になってくれると嬉しいです。
ご飯もよく食べるから、来週はおやつ持参しなくても結構ストックがあるみたいです(^^)
外に出たら、綺麗な青空。秋めく、という感じ。台風の雨風が塵を洗い流してくれたんでしょうか。
空を取るときは電線が邪魔だなあ、と思いますが。こんな坂道です。
そういえば、どこかで時々見かける「お願い」に「遺体の写真が載ったニュース記事を見せないで」というものがあります。
そういうものなのかな?と私はいつも不思議に感じているくらいですが、まあ、過去にトラウマになるような出来事があって、PTSDになるから見せないで、というような事情の人なら理解できます。それは無理ないし、ワンクッション置く配慮は必要かなあ、とも思います。
でもそういうケースじゃない場合はどうなんだろうな?とふと考えてしまいました。
残酷とか悲惨とかいう前に「死を忌避する」感情の方が先に立つのかな?とも思います。
自然災害や戦争や大事故などで、不幸にも亡くなられる方が少なくない場合、どうかすると普通に病気などで亡くなられた方よりも遺体の損傷がひどいと思います。甥っ子が消防士になった当初、耕運機に巻き込まれた人を救助したけど、相当悲惨な状態だったそうです。その方がどうなられたか、聞いていませんが、助かっておられるといいな、と思いました。
悲惨な状況の人を救出するのが救急や消防や自衛隊などの場合(海外なら軍もありますね)。救命のために尽力されているのが医療関係の方々ですし、そういうふうな生命の瀬戸際に直面したらとても気持ち悪いとか怖いとか言ってる場合じゃありませんし…。
生と死のとても近い表裏一体の場面にあれば、遺体がどうこうって言ってるどころじゃないですよね。
私はそういう極限の場所は知りませんが、祖父母や父を看取ったことで、身近な「死」の存在は怖いとは思っていませんでしたし、やはり生と死はひとつながりになっていて、全然別物とはとても思えませんし。遺骸が気持ち悪いとも思ったことがないんですが…。
それともなにか抜けている感情があるのかな?好奇心でも猟奇的な興味でもなくて、その人の「生涯の終わり」をきちんと見つめて「お疲れさまでした」と言ってあげたいし、冥福を祈りたいです。
「見たくない。見せないで」と言われると、なにか間違っているのだろうか?間違っていたらなにが間違いなんだろうか?と悩んでしまいます。
そういうブログ記事をたまたま見かけたおかげで、つい考えてしまったことでした(ーー;)