「休む」と言いながら、昨日は結局仕事をしてしまいました (ーー;)
だって、気になりますよね。やりかけている複数のご依頼があったら…。そのあたりが会社で働いているわけじゃないからなあ…。どうしても区切りがつけにくいのです。フリーランスの宿命といいますか…。まとめて休みが取りやすいのは勤め人の特権でもありますよね…。で、休んでいる間は仕事を忘れていてもいいわけだし…。
まあ、どちらがいいのかは私にもわかりませんが…。
でも勤めていた時はしんどくなって、日に一度くらいは床にでもいいから猛烈に横になって休みたい、5分でもいいから…、とか願っていたので、それは今の方がやりやすいんですが、今度は逆に区切りがつかないと休めないという… (ーー;) これも性分かもしれません。
実はしばらく前に楽天のクレジットカードが不正使用された疑いがある、ということで、使用停止、カードの再発行になったんですが、今度はニコスカードの方から「使われようとして中止になっているようです」というメールが…。またか、と思いましたが、今回は未遂でした。
ニコスカードの人にこの前の話をすると、「楽天のIDが読み取られた可能性がありますね」と言われたので、今度は楽天のIDやらパスワードやらを設定しなおして。またしてもニコスの方も再発行に…。
そういう手続きなどなどに時間を取られて結局寝られず… (ーー;) 仕事は2件、さっき納品しましたが、うち1件は修正の可能性も大です。まだまだ終わったわけではありません。
「やらずに後悔するよりは、やってから後悔しよう」というのが私のモットーだったりするんですが、これって本当に真理だなあ、と最近改めて思っています。
何事につけても「あの時やっておけばよかった」という後悔はずーっと残るんですよね。生きている限り。「やっておけばよかった」というほどのことはチャンスでもあって、それを試しておくことが出来なかった=チャンスを逃がしてしまった、というのは残るよね、いつまでも。
結果的に失敗に終わったとしても、実際にやってみたら「あれをやってみて駄目だったんだから仕方がない」わかっただけでも得をした、という感じで、なんらかの学びとして残ることが多いです。だから失敗が後悔にならないんですね。失敗したけどやってよかった、という実感は大きいものです。失敗でも逆に自信のもとになったりします。
やるかやらないか、どこで決めるのか?と言いますと、私の場合だったら「もしも明日死んでも悔いを残さないかどうか」で決める気がします。「明日死ぬ」と仮定すると、何が本当に大切かクリアにわかりますしね (^_^;)
私はなぜか哲学体質でもあるし、10代の頃からずっと「生と死」について考えてきました。小3の時に自宅で看取った祖父の死を初めとして、祖母や父や、家族とのいろいろな死別も体験しました。
それでも本当に「死ぬのが怖い」と感じていたのは12、3歳頃までかな?それから以降は裏と表に存在する生と死については共にあるのが当たり前だと思っています。
「よく生きる」ことを考えるのはすなわち「よく死ぬ」ことを考えるのと同義なんだなあ、と。
満足して死ぬためには、今日を後悔しないように生きなくてはね (^_^) 私もわりと生き急ぐタイプかもしれません。ゆっくり休めない自分を発見してそう思います。まあ、これはこれで悪くないですね。
実際に自分の人生で後悔が残ることってありませんでしたし…。順風満帆ではなかったですよ、全然。でも楽しかったし。有意義だったし、どの体験も貴重なものだったなあ、と思っています。
本当に死ぬ間際に「このつまらない人生ってなんだったんだ?」とか思いながら死ぬのってつまらないですし…。そういうことにならないためには気付きと思い癖の変化があればいいんじゃないかなあ、と私は感じています。
あちこちブログを読ませていただいていると、どっぷりと思い癖の落とし穴にはまりこんでしまって、「この人ってよほど不幸の側にいるのが心地いいのかなあ?」と思うようなこともあるんですが…。余計なおせっかいというか、そういうタイミングで閉ざしてしまっている人にはこちらの気持ちが届かないこともままあって、非常に残念です。いつか気付いてもらえるといいなあ、と祈りつつ…。
精神障害者だから、いつも暗くしていなきゃいけない道理なんてどこにもないんだよね。同じ病気の方から、私は双極性2型の理想的な形じゃないですか、と言われました。気持ちのプラス変換と病気との距離の置き方が適切に思えるそうです。そういうふうに見てくださる方もあるんだなあ。
少なくとも病気に振り回されることはないですね、最近は。これはもしかしたら人生そのものへの視点と捕らえ方とも共通点が大きいのかもしれません。それを教えてくれたのが病気なら、やはりものすごくありがたいと思います (^_^)
今日も悔いがないように生きよう!