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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

残酷で魅力的なこの病気を愛せるか

冷静に記憶を辿ってみると、私はどうも中学生の頃から、「死」というものにある種の親和感のようなものを抱いていたふしがある。

PMS、いわゆる月経前緊張症というものを経験された女性は多いと思う。イライラや吐き気や頭痛などなど、いずれにしても不快なものだけれど、なかでも私の場合はどうしようもない厭世観につきまとわれていて、するといつも死にたくなることが毎月のようにあった。

あの厭世観や強い片頭痛や、高2の夏に始めての発作を経験したパニック障害なども、思えば今の双極性Ⅱ型障害に続く序章のようなものだったのかもしれないと思う。

まあ、若さゆえの強さか、当時の私はそういう気分や症状の波が、時間が経てば過ぎ去るものだと信じていた。たとえまた再来するとしても…。

それでいながら、動ける時は人並み以上に動いていた気もするから、あれもやはり軽い軽躁状態だったのかもしれないなあ。さほどたいしたことは出来なかったけれども…。

そういう目立たない病気の因子が少しずつ顔を出していたのが、私の人生だったのかもしれない。

双極性Ⅱ型障害というものとは、実に人生のほとんどをつきあってきた可能性があるなあ、と今にしてみると思う。

先日読んだ本。

著者は自らが精神科の医師であり、患者でありつつも同時に医師の視点から自分の病気を見つめてきた人だ。日本での出版が1998年ということで、内容的には(薬のことなど)いくらか古くなりつつある点もなきにしもあらずだけれど。(でもとりあえず炭酸リチウムでの自殺はやめよう、と思った。えらく苦しいらしいので)

この方の場合は双極性Ⅱ型と違って、より波がはっきりと現れるⅠ型の躁鬱病だ。だから躁状態の時の行動は相当に激しいだろうし、逆に鬱になった時のギャップも激しいだろうと容易に想像出来る。

そして発病もかなり早かったようだ、ということも。(診断がついたのは成人後ですが)それでも彼女の場合の躁状態は混乱と同時にまた優れた成果をもたらすものでもあったようだ。

「残酷で魅力的なこの病気を愛せるか」というサブタイトルは深いなあ。

私はいま、非常に深い孤独感を感じている。同じ病気で同様に苦しむ人がほとんど身近にいないこと。元気で活動できた頃にはおそらく戻れる可能性がないこともわかるし…。

自分の脳の中で起きている変化のイメージを映像的に理解できても、それをどう表現すればいいのかわからないこと。そしてその変化に対して打つ手がないことなど。

思えば思うほどにどうしようもない孤立感と孤独感に苛まれる。

唯一の救いは、相当にひどいうつ状態の時であっても、お絵描きとデザインの作業が可能なことかもしれない。その作業に集中することで、つかの間にしてもその孤独感を忘れていられるような気がする。それが出来なくなったら生きていられるかどうかもわからないなあ、と自分でも思う。

天才でもなんでもない私に、プラス面として残されるのがそれなのかなあ?と思うと、わずかだけれども、この病気を愛せそうな気がしたりもする。

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