昨日の夕刊で「幸福度が世界で最も高い国」であるブータン王国に関するエッセイを読んだ。短い記事だからそれだけの情報でいろいろ考えるには限界があると思いつつ…。
ブータンという国の人たちの幸福感はその土地の宗教観と別けては考えられないものだろうなあ、という印象が強かった。かの国の人々にとっては、人間も動物もまわりにある世界のもろもろのモノが生命としての同じ重さの価値を持つものらしい。
たとえば死後、人間は49日たてば別のなにかに生まれ変わる。それは人間にかもしれないが、他の動物にかもしれない。電線は必要ない、だって鶴が飛ぶのに邪魔になるから…、というように思えるのも、その鶴がもしかしたら自分の身内や知人の生まれ変わりかもしれないからだ。
そういう国だから、あらゆる生命の重さが科学や文化の発展よりも重視されている。それだから、かの国の人たちはモノを多く持たなくても、便利な文明生活でなくても幸せだと思えるんだろうな。
それはそれでいいのかもしれないし、ある意味真理かもしれない。
ただ、もしも彼らが便利な文明生活を享受することを知ってしまったら、今までと同様に幸福を感じられるかは疑問だろうな。人は便利で楽なものに馴染むのは非常に速いし、容易くもあるから…。
いまの我々、おそらくブータンの人たちよりも多くのモノを持ち、多くの情報を知っている。そういう恵まれた環境にいながら、どこか本当に幸せだと思っていない部分も少なくない。
もしもこういう世界を知らないままだったら、それなりに幸福でいられるのかもしれないが、でも「知ること」自体が幸福の一つだとわかってしまうと、もうもとには戻れないものなんだなあ…。もっともっと知りたいという無限のような知識欲が人間にはあるから…。
そもそも人間というのはそういう矛盾した存在なんだと思う。ブータンの人たちの幸福度と、私たちの世界の幸福度をそもそも同じスケールで測ろうとすること自体がおかしいのだと思う。
矛盾した存在である分だけ、人間はそれぞれの幸福に近く、また永遠に遠いものでもある。業とでもいうのか、なんというか…。こういうことに悩まなくなる場所というのが天国かもしれないけれど、そもそも矛盾した存在の人間が100%納得して満足出来るような世界があるのかどうか…?
それでも私自身は「知らない幸福」よりも「知ることの幸福」を選んでしまうんだろうな。それがより苦しい立場に到る過程だとわかっていても…。