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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

巫女の決意

昨夜寝る前にたまたまぶつかったサイトとブログの中で、ヤマトタケル弟橘媛をチャネルしたという人の体験みたいなものを読んで、ちょっと頭がくらくらしています。まあね、そもそも神様として祀られているのですから、そういう人がいても不思議じゃないんですけれど…。

でも、いわゆるスピリチュアルな世界の人って、自分が見たものとか感じたものをどうして自信を持って「間違いない」って思えるのかなあ。それが個人的な霊、たとえば身近な人々とかご先祖の霊とかであれば、わりとすんなり納得出来るんです。それが本当であるかどうか確認することも可能ですし。

けれども神様のレベルというか、前世においてその人間だったとか言われてしまうと、えー、嘘だあ、って正直感じてしまったりします。まるきり嘘ではないとしても的を得ている部分はそんなに多くない気がしたり。

それで改めて自分のことを考えてみます。

私の個人的なヤマトタケルとのかかわりは実に30数年に及びます。チャネルしたとか、そういうんじゃないですけどね。ただ、魂の奥底に響く出会いをしてしまって、以降の私の人間形成と深くかかわりを持ち、創作の原動力になっていることは確かです。

「私」という人間はタケルや弟橘媛を必要不可欠な部分として存在しているというか、そんな感じ。で、絵を描くにしても物語を描くにしても、もともとの天啓のようなものが降りてきてくれないと形にはなりません。そういう点では巫女みたいなもんだよなあ、と思っています。

だから正直なところ、私が感じるタケルや媛の気持ちはその人たちが言っていることが、すべて的を得ているわけではない、とわかってしまうんですけど、でもそれを主張したらきっと同じスピリチュアルな曖昧なレベルになってしまいそうで…ちょっと苦笑いしてしまいます。

いろんな感じ方、考え方もそれが「創作」の形を取っていれば、どういうパターンのものでも「ああ、こういうのもありだよなあ」と素直に納得出来てしまうんですけど(笑)

心の中のどこかで「自分が感じている彼らの心情が、きっと一番本物に近いだろうな」と思ってしまうこと、そういう思い上がりが怖いです。「自分」の一部だから、それを神様と同化してしまったらまずいよね、と心のどこかがブレーキを踏んでいる感じ。

でも自分もかなりチャネルしているような感じはあるので、どうかするとそれを正当化してしまいそうになる。困ったな。それを否定されてしまえば、きっと自分自身を否定されるのと同様に感じるだろうな、とも思うんです。

いかん、いかん、スピリチュアルな世界とは深く関わらない方がいいだろうな。「本当は違うんだよ」ということを一番自然に伝えるには、やはり「作品」という形に昇華しなければ。美を描くことで魂を描けるようになりたいです。

…そういうことを改めて決意する今朝の私だったり。

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