昨日は午後から腎臓の働きが活発になっていたのか、そんなに水分を摂ったわけでもないのに、なんだかトイレ通いばかりしていた気がします。それは夜になっても続いていて、最後に起きたのが午前3時前くらい。
それからまた寝たのはいいけれど、起きた時の気分が最悪で動けず。…というか、動いたら吐くよ、これは、と思ったので、取りあえずデパスとセディールと救心、それと五苓散を飲んで30分くらいじっと寝たままでした。薬が効いてきてやっと徐々に動けるようになった感じ。まだ気分は良くないですが。
私はあまり薬に依存しているような感じではないのですが、本当に具合が悪い時はどうしようもないですね。結構大ざっぱな感覚なんで、あ、今月はデパスも残ってる、あんまり飲まずに済んだってことかな、まあいいかあ、とすぐ思ってしまいます。(基本的にあんまり気にしない~ (^_^;))リーマスだけはきっちり飲んでるつもり…。でもたまに忘れてるけど、まあいいや (^_^;)
薬もねえ、介護の時はすごくきっちりと整理して管理して飲ませてましたが、こと自分のことになるとすぐにどうでも良くなるのが不思議だなあ、と思います。仕事とかきちんとやるべきこととそうじゃないことを無意識に分けていて、自分自身のことはさほど神経質じゃないのかもしれません。
どうも私はごく幼い頃から自分の意志でなく、まわりから「他の子と同じようにしなさい」と強制されるのが大嫌いなところがありました。その意味では協調性や社会性がないのかもしれません。
ただ、自分だけの価値観のようなものは幼稚園児くらいの時からあったみたいで、「まわりと違う」ことを全然気にしていなかったふしがあります。無理してまわりに合わせるというのがものすごいストレスで。
でも不思議なことにまわりと違うことを恐れない子供に対して、いじめとかそういうのはなかったですね。あったとしても私が意に介していなかったのかもしれませんが… (^_^;)
ごくごく平均的な人生のレールというか、進学や就職、結婚、出産などに対してもそれは変わらなかったため、人はそれぞれに自分がよしとするように人生を歩めばいいのだと思っていました。だから劣等感というものがほとんどなかったように思います。
まあ、10代の頃はしばしば自己嫌悪に陥っていた記憶があるので、いろいろ悩んでいたと思いますが、それもやっぱりコンプレックスというようなものとは違ってたかな。
そもそも他の人と比較したり競争したりすることがないので、劣等感なんて持つ必要がなかったし。人はそれぞれに自分の長所や特性や個性や得意なものを生かせばいいんだと思うし、それは誰も皆違うことなので、そもそも比較対象になりませんよね。
それなのになんで「勝ち組」とか「負け組」とか決めつけてしまって、それゆえに他の人と比較して劣等感を持つ必要があるのか、実は今でもわかりません。自分が自分らしく生きられていればそれでベストなのにね。
社会の構造にしてもそうかな。それぞれの人がそれぞれの専門分野に誇りと自信と責任を持って働けば理想的。
もとより職業に貴賎もないので、うまく分業が出来ていればそれが好ましいことですね。出世すればそれだけ責任が重くなるし、それが辛ければそれなりの位置で無理なくやれればいいですし。
ただ、人の生命に関わる場所では、プロフェッショナルの責任はそれだけ重くなりますし、社会的な責任も同様ですよね。で、そういう場で働く人たちに若干の収入的なプラス面があるのは当然かもしれないし、それは差別とは全然違います。
自分が得意ではない分野できちんとしたことをやってくれる人に対する感謝や尊敬の念はそこから自然に生まれてくると思います。
で、自分は自分なりに得意なことで誰かの役に立つことをすればいいんだし。たとえ病気をしていたって、そこから学ぶことは多いので、この経験がやがては誰かの勇気のもとや参考になったりするかもしれないですし…。
「理想的かつ標準的な人生モデル」なんてきっと幻に過ぎないのだと思います。むしろそんな幻想があるから辛くて不幸な思いをしている人が絶えないようにも思います。
他の人と自分とを比較するなんてまったく意味ないです。そういうことをしている暇があったら、自分がより自分らしくいられるように励む方がずっと楽しいな (^_^;)
そういう日々に劣等感などというあまりプラスにならないものがつけ入る余地はないと思います。
追記:今日はマッサージだけでなくて鍼もしていただきました。手首に近いツボのあたりは相当痛みを感じたけど、まだ痛さを感じつつ、腕が後ろに回せるようになりつつあります。ありがたいことです (^ω^人)