また寒くなりました。
今日は母の内科の受診日で、母はどうやら午前4時前から起き出して、ごそごそ用事をしていたようです。で、私も仕方がなくて6時過ぎにはつられて起きました。どのみち来週の月曜日も早起きしなければなりませんけどね〜。
昨夜は悪夢を見ていました。なんだか夢の中では現代なんですが、まるで戦争中のようで、それこそ、原爆か水爆のようなものが爆発してるんですね。キノコ雲だったから、広島、長崎の過去の記憶か、あるいは原発事故そのもののイメージかもしれませんが…。
取りあえず、家族と共にどこに避難するべきか?とか、どこまで具体的に対応できるかなどと、夢の中でも真剣に悩んでおりました (ーー;)
本当に現実の反映みたいな夢だったなあ… (*-д-)-з
思えば、私は昨年の福島の事故が現実に起きる前から、しばしば原発事故の夢を見ておりました。私の中では戦争の夢と原発事故が「悪夢」の最たるものだったんですね。
…というか、事故が起きるずっと以前から、原発の存在自体がずっと根深い恐怖の対象でした。「死」そのものよりも。
若狭湾にレジャーや水泳に行くと、遠くに原発が見えるんですが、その影がいつでも「禍々しいもの」という存在感で圧迫感がありました。
自分でもなぜこんなに根源的な恐怖を感じるのか、理由がよくわかりませんが…。
そういえば、広島の平和公園に行った時には、潜在的に抱いていたイメージと違って、「なにもない」という気持ちでしたね。もっと多くの「念」のようなものが残っているかも…とも想像していたんですが…。やはりそれだけ多くの人が祈りを捧げているからでしょうか…?
しかしながら、原爆資料館の中は別世界でした。非常に衝撃的で重い資料がそこには存在しました。おかげで私はただならぬ衝撃に打ちのめされました (ーー;) 辛かったです。
同様のことは沖縄のひめゆり資料館でも感じました。おかげでそこを出る時にはずっしりと肩の重さと頭痛を感じていました (ーー;)
どうも私の感受性のアンテナはそういうものに極めて強く反応するようです。それがなにか?と考えてみると、人が人を傷つける衝撃や、人の手には負えない大き過ぎるエネルギーへの恐怖のようなものでしょうか…。
これは明らかに「自然がもたらす災害」とか「驚異」などとは質が違うものです。
自然の驚異はそのままに「神への畏れ」のようで、素直に納得出来る部分があるのですが、戦争や原子力関係のものは全然質が違うんですね。
「努力すれば防げたかもしれない」というものですね。それが結局防ぎきれなかったこと自体が、本当になにものかに対する冒涜のようにすら思えて、おもしかしたらそれが私個人に「得体のしれない強い根源的な恐怖感」をもたらすのかもしれません。
このあたりの微妙なニュアンスが他の人にはどこまで伝わるのかわかりませんが…。
とにかく私は怖いんです。出来ることならば一日でも早く、この世界からなくなって欲しいとすら願ってしまいます。
それほどに私には「不自然極まりない」恐怖の対象なんです。自然の摂理として訪れる「死」よりも強い恐怖があるんですよね…。
自然なる死は未来への掛け橋でもあります。しかしながら放射能の害は、その未来を傷つける大きな障害そのものであり、希望を見失わせる可能性すらあるものでもあります。
生まれる前の恐怖に脅え、生まれ変わる未来の危惧に不安を抱く、これも私の性のようなものでしょうか…?