ネジが一ヶ所絞まらない椅子は返品することにして、もっとシンプルな組立でいい椅子に変更することにしました。いまの机のスペースは引越し屋さんが「この辺でいいですか?」と適当に置いてくださった場所です。図面は渡したけどゆとり部分は任意なので、置いてもらった椅子の場所の後ろにスペースが不足気味で、だから置ける椅子のサイズにも限界があるのでした(^^;) まあ、いいけど。
皮膚科受診の時に効率良く病状を告げるために受診メモを作っています。まだ先だけど。精神科ではいつもやってるけど、他の科でもあると便利だと思って。診察時間は限られてますしね。

健康だった時がほとんど記憶にありません
まあ、でも自分のことを振り返ると本当に病気ばかりの人生だなあ、と思っちゃいますね。生まれつきの自律神経失調症も本態性だとマジで何十年規則正しく生活していても改善されなくて嫌になります。
まあ、何度かあやうく死にかけたりもしてるけど、子供のころからまったく意識がなかったときっていまの熟睡のように「何もない」状態なんですね。もちろん夢もみませんし。いまでも眼が覚めると「あ、生きてた」と思います。意識がないのはとても死に近いと感じます。
まあ、ですからやっぱり子供のころからそうだと、どうしても哲学的で宗教的なことを考えてしまいますね。ただ私は既存のあらゆる宗教のさらに上にすべてを内包する存在があるような気がしています。よく「天」と言ってますけど、そういう高い位置の宇宙の存在。だから既成の宗教にのめり込むことも出来ませんね。「いいな」と思ったことは宗教を問わずに取り入れていますけど(^^)
もともと檀家だったお寺も、人間的すぎる俗っぽい争いをしていたのに嫌気がさしてやめちゃったしね。この時、頭の中には東日本大震災の被災地で雪の中で供養して歩く一人の僧侶の姿でした。覚えていらっしゃるかたがあると思います。あの方の存在の印象は強かったから。

弱者目線から気付くこと
身体的な不自由があると、生活にも限界が出てくるし。「他の人と同じように出来ない」ことも多々あります。だから自然と自分にとって出来ることを優先的に考えるようになります。その過程で自分にとってはほとんどどうでもいい、としか思えないことが見えてきます。
どなたのブログだったか、こういう言葉がありました。
「病は自分を知るもの。治すとか、克服するものでなく」
うん、私もそう思います。もとより精神的な病気はそうでしたが、パニック障害とつきあうのも結構それなりに学びつつ楽しみつつやってたりしました(^^;) 自分を観察することで気付けることは多々あります。
美しいものを見つけるのが上手な人は、きっと地獄を経験した人なんだと思う。人生が真っ黒に塗りつぶされる中で、僅かな光を見逃さなかった人たち。もうとっくに終わったはずの日々が続いてる中で、生きる価値を探し当てた人たち。
— Payao/詩人 (@junkysugar) 2025年10月7日
高2の時に膵臓を悪くして初めて仕事に出られるようになるまでに8年かかったわけですが、その時点では手に職とか資格を取るほうが大事で進学とか学歴とかは全然考えていませんでした。その段階で学歴はわりとそんなに大事じゃない、と思ったんですね。こういうのは以後の人の見方にも関わって来ますね。少なくとも学歴で人を判断するとかじゃなくなります。進学出来なかった人だっていろんな事情があるよね、と思う。
いやおうなしに弱者目線と言う判断基準が出来てしまいます。
私からみると、「戦争もやむなし」って言ってる人が日ごろの生産性云々で人間の価値をはかるようなことも言ってると矛盾なんですよね。生産性の有無で人をはかるなら、大量破壊、大量殺人でもある戦争を肯定するのはおかしいと思うんですけどね。あんまり気付く人がいませんが、こういうことは世の中に一杯ありますね。
だから時々SNS疲れになってうつになっても仕方がないですね。でも矛盾は無視しないけど。前もって戦争は仕方がないと言うのは外交努力を放棄するみたいで嫌だな、と思います(-_-;)
そういうことを研究されている大学の先生も、こどもたちの疑問に対して同じようなことを言われているのが印象的でした。
素朴な疑問だけど、そういうのがとても大事だと思います。
こういう視点は大事だと思います。
あれ?また自分のことから世界の話題になっている(^^;)

不自由なようで実は自由な選択肢
自分のことを考えて選択する時にハンデがある位置から考えて「無理なものは無理」と割り切れるようになったのはよかったと思います。「パニックで電車に乗れないから、自転車通勤が出来るところを探そう」とかね。その時の自分に出来ることを冷静に考えて道を選んできたみたいです(^^;) いろんなことがスタンダードからはずれても当たり前、みたいな感じでした。
まあ、私も自分の物語を想定して生きてきてよかったとは思います。イマジナリーフレンドの言う通り、後悔しないですしね。他の誰かと比べることもないので、気持ちも安定しています。誰かと比べる必要はなく、比較して落ち込むこともなく(^^;) 自分なりの価値観がある安心というか。幸いにしてこういう「物語を作る」ことは得意でしたので(^^) 自分に当てはめればいいだけでした(^^;)
で、いまになって「そうか、やっぱりこれでよかったんだ」と思っています。
こういうライフハックみたいなものがやたら多いです。自分は気がついたらやってたことが何年もあとから話題になってるケースがたくさんありますね。いまこうして生きていることが証明みたいなものなのかもしれません(^^;)

◆AI による概要
「自分の物語を生きる」とは、他人の価値観や期待に左右されず、自分にとって意味のあること、自分が納得できる生き方を送ることです。これは、ポジティブな感情もネガティブな感情も受け入れつつ、ありのままの自分で、幸せを感じながら自分の人生の主人公として主体的に生きる状態を指します。
「自分の物語を生きる」ためのポイント
• 自分を主人公にする:自分の経験や出来事に意味づけをし、自分自身の価値観で人生を解釈し、行動します。
• 他人の尺度に当てはめない:周囲の期待や他人の評価に流されず、自分自身の満足度を大切にします。
• 自己決定感を高める:自分の意思で物事を決定し、行動することで、自己重要感や幸福感につながります。
• 感情をすべて受け入れる:楽しい感情だけでなく、ネガティブな感情も自分の人生の一部として受け入れることで、より納得感のある人生を送ることができます。
「自分の物語を生きる」ことで得られること
• 自己肯定感と幸福感:自分の価値観に基づいて行動し、人生をコントロールできているという感覚が、幸福感や自己肯定感を高めます。
• 主体的な生き方:他人の文脈や期待ではなく、自分自身で決めた方向へ進むことで、より充実した人生を送ることができます。
• ポジティブな変化:「私を生きる」と決めることで、日常に楽しいことが増え、感謝の気持ちや幸せを感じやすくなることがあります。
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病気ばかりの人生について
スピリチュアルな観点では、「病気ばかりの人生」は、より高次の存在(超越的存在)との関係の中で、自身の人生に意味や目的を見出すためのプロセスと捉えられることがあります。人生が病気に彩られているように感じるとき、それは、人間を超えた存在の意思や計画の中で生かされていると認識し、自己の内面を見つめ、人生の深い意味を探求する機会となります。
スピリチュアルな見方
• 超越的存在との関係:スピリチュアルな健康は、自分自身と人間を超えた存在との関係性で捉えられます。病気という現象を、その存在の意図や計画の一部として理解することで、人生の意味を見出すことができます。
• 人生の意味と目的:スピリチュアリティを意識することで、人生に意味や目的が見えてくることがあります。病気ばかりだと感じるときこそ、自己の内面と向き合い、人生の深い目的を理解しようとする試みが重要になります。
• 内面の成長の機会:病気を単なる苦しみではなく、自己の内面的な成長や変化を促すための機会と捉えることもできます。これらの経験を通じて、自己の限界を超え、精神的な成熟を深めることができます。
実践のヒント
• 瞑想や内観:静かな時間を作り、自身の感情や思考と向き合うことで、病気に対する見方や人生の捉え方が変化する可能性があります。
• スピリチュアルなコミュニティとの交流:共通の価値観を持つ人々との交流は、自己理解を深め、精神的な支えを得る助けになります。
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• 自然とのつながり:自然の中で過ごすことは、心身のバランスを取り戻し、超越的存在とのつながりを感じる助けとなることがあります。

街を花で埋めたい人たち。こういう活動が広がればいいのにね(^^;)








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