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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

どんな時でも見失わない幸せの見つけ方

 

幸せは自分で見つけるものだと思う

 

2、3日前に「うつの時になにが幸せかなんて、わかるわけないだろ」というつぶやきを見つけて、それがずっと引っかかっていました。

 

幸せがなんなのか?わからないのって、うつのせい??? …それって自分にはちょっと思い当たりませんでした。うつのときにわからなければ、健康な時とか、躁状態の時ならばわかるんだろうか?その限定条件の時にしか認識されない幸せって、果たして本当の「幸せ」なんでしょうか?

 

 

病気になった時は改めて自分の人生や生活全般をじっくり見直すチャンスだと思っています。だって自分が弱っている時ではないと気付かないことって一杯あると思うんです。

 

体力や気力の限界。動けることに限界があるから、なにを優先させるか?優先させるものってやっぱり自分にとっての「大事なこと&大事な人」だと思います。どうでもいいようなことなんてうんと後回しにしたってどうってことありませんしね (^_^;)

 

じゃあ、自分の無理をしない限界がわかれば、悔しいけど、本当に大切なことを優先してやろうと思うから「大切なことってなにか」というのと「大切な人は誰か」というのがわかってきます。そういう存在が自分にあれば、それって幸せなことではありませんか?

 

生憎、そういうものがなんなのか、わからないし、想像も出来ない人は、その人なりにじっくりと考えるチャンスでもあるんですよね。

 

弱っている時だからこそ、限界があるからこそ、見えてくるもの、気付くものがあると思います。どこかで見かけた言葉ですが「苦悩している人は気付かざるを得ない」というのが印象的でした。苦悩していない人は同じ状況にいても、必要がないと思っていると気付かない。

 

なにかを成し遂げる過程ってそれですよね。苦労してやり遂げるから、完成した時の歓びや幸福感がしみじみと心に染みる。

 

そんなのが当たり前だって終わらせる人は未熟な子供だ、そうです。これってどこか有名な彫刻家の言葉のような…。

 

子供はなくして初めて大切なものだったことに気付くけど、失う前にそれに気付くのが大人だと言われています。いちはやく気付けるから守れるのですね。

 


自分にとっても指針になる星はどこにあるのか、亡くしたくない大切な人は誰か、苦悩しても幸せを味わう甲斐があるのはなにか?…そういうことって、おそらく健康な時からでも考えていないと気付けないないかもしれませんが、でも病気の時は一層わかりやすくて、見つけるチャンスだと思います (^_^)

 

 


過去の私もやっぱり同じように考えている (^_^;)


以下、自分のブログの過去記事から見つけました。2年半くらい前の記事です。

この文章の前には座敷童子の話とかしていますが、その続きに…。

 

眼には見えないこういう世界が存在する、ということは結構励みになるものだ。

肉体が存在しているあいだだけが人生、というのとはちょっと違う目線でものごとを捉えるようになるからなあ。 たとえば肉体的、あるいは精神的に病気だとしても、その病気をちょっと違う次元から見て、意味を探るような視点も生まれるし。過剰に嘆くことなく、かなり冷静に対応も可能になってくるし。

先日、同じ病気の人が書き込む掲示板で、ある参加者さんがお医者さんにこういうことを言われた、と書いてらした。「病気を生きずに人生を生きろ」と。名言。 どのみち、生涯つきあって共生していく病気です。だったら上手くあしらって病気ばかりに気を取られない人生を大事に生きる方がずっと大切。

まあ、病気というよりは障害ですが、それでも私は脳が誤作動を起こしている状態の時は大抵自分で把握出来るし、そうしたらむやみに動くこともなるべく避けるから、まわりへの被害もかなりセーブすることが出来ます。

そういうのがわかってくると、改めて病気ではなくて「人生」そのものに眼を向けることが出来るようになるんだよね。 同じ一生。できる限り前向きに生きたいものです。

 


…自分自身に言い聞かせておりますね (^_^;)

 

 

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