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両親の介護も一段落 双極性2型障害と気長に共生中

決断するときに重要なのは「後悔しないこと」

 

幼児期にしっかりあった自分軸

 

子供のころ、主に幼稚園児のころからだと思うが、誰かに「大きくなったらなにになりたい?」というありがちな質問をされて、私はいつも他の子たちのように「なりたい職業」を答えることが出来なかった。具体的に大人になったらやりたいことが浮かばなかった。

 

ただ、ものごころついた時からずっと絵を描くことと本を読むことが好きだったので、大人になっても絵を描き続けていたかった。(それが「職業」ではないことがポイント)

 

そしてずっと現在に至るまで、好きなように絵を描き続けているが、やはりそれが職業というわけでは決してない。

 

高校受験の時、可能なら美術系の公立高校に行きたかったが、経済的にはそれも無理で、普通の公立校に進学した。

 

高2の時に慢性膵炎になって、長期の療養を余儀なくされた。卒業と同時に就職するつもりが、その後も数年の療養が必要になった。まあ、特に大学で学びたいことがあるでなし、と、そのへんはさっぱりしていた。

 

でもかわりに手に職をつけたいと考えた。そこで20歳の時に個人で教えておられる洋裁教室に通って、ドレメ式洋裁を基礎から学んだ。ある程度技術が身に付くと、自分の服だけでなく、母や祖母の服も縫った。ちょっとしたバイトにはなったし、技術は身についたけど、あまり収入にならないと思ったので、突然に通信講座で医療事務の勉強を始めた。

 

これは高校生の時にパニック障害になったため、なにかあったときでも、お医者さんがそばにおられたらなんとかなるし、という精神安定剤的なものを求めた結果。

 

3〜4ヶ月の勉強で資格とか修了証をもらったので、仕事を捜した。求人をみつけて内科の面接に行ったら、そこの先生が「うちの姉のところを紹介します」と言ってくださって、小児科医院(先生は女医さん)に勤務することになった。ちょうど5年間。ただ当時の私は痩せていて体力もなく、患者さんから頻繁に風邪をもらった。とどめに風疹までもらったので、結局やめることになった。

 

 

 

 挫折だとは思ったことはない 日々勉強だから

 

20代、30代は帰宅するとひたすら漫画を描くために机に向かっていた。友人達のサポートを得て同人活動もやっていた。

 

それからご縁があってデザイン会社に勤めることになった。ここでiMacに出会う。まだLC‖の時代。IllstratorとPhotoshopの勉強をしながら操作を覚えていった。私の場合の仕事は半分は勉強なんだよね。だから体力的な問題はともかく、仕事自体は結構楽しんでやっていた。小児科とデザイン会社で学んだものは非常に大きく大切なものになった。

 

デザイン会社には10年。会社の都合で退職。土木設計事務所に1年弱勤務。図面のトレースやデータ入力の仕事。ここはあまりにも旧態依然とした会社で、肌に合わずに1年で辞めた。

 

それから勤めたのは表具会社。そこで掛け軸を作る作業をしていた。そこで覚えた技術は場所と道具があればいまでも出来ると思うけど。そこにも5年。

 

さすがにずっとあったうつの傾向と症状が強くなって仕事に行けなくなって辞めた。その段階で初めて精神科を受診。うつ病と診断される。

 

 

 

 

 なぜか家族を支える役回り 介護

 

弟も同じクリニックに通うようになる。パニックもあったので、弟なりに考えて「自分の病気は多分治らないから、子供のための影響を考えてもよくないと思う。離婚して欲しい」と決断した。姪が中3、甥が小5の時。

 

母が乳がんになり手術。ホルモン療法のためにかなり調子が悪いと訴える。ホルモン療法は1年半で中断。

 

父が脳梗塞で倒れた2006年の1月。要介護5、半身不随。以来2009年の10月まで在宅介護を続ける。嚥下機能低下のために胃ろうを造設。薬と食事の管理は私の役目だった。はっきり言って、自分の病気がどうのこうのって言ってられなかった。

 

父の死後に初診から8年半後に私と弟の病気は実は双極性2型障害だったと判明。この病気の診断はかくも難しい。

 

2013年10月、母が倒れた。おそらくベンゾジアゼピン系の薬のODによる癲癇だと思う。父の死後、やはりよく眠れない日が続いていたらしい。以後、2015年4月まで在宅で介護。要介護5。食べてくれないから褥瘡が治らない。のちに感染症予防のために片足切断。この時も苦しい決断を迫られた。

 

父の時と違って、私一人の在宅介護は限界が来る。2015年4月から特養のお世話になって、毎週のように逢いに行った。2018年5月母死去。

 

もっとも辛い決断は親の生命に関することだったと思う。どの段階まで延命処置をお願いするか?ただ、両親共に人工呼吸器を付ける選択はしたくなかった。「やらない」という決断。相当に悩みました。

 

 

築54年のこの家も修理に限界がきた。正確には費用の限界。私も弟も僅かな障害年金で暮らしているのでそんな余裕はない。排水関係で地下を触ると100万単位の出費になる。悩んだし迷った。そして昨年末、不動産として動かすために、父の名義のままだったこの家を相続登記した。費用が勿体ないので、司法書士さんに頼まず自分でやった。

 

そして現在、この家を売却し、弟と市営住宅に移るために片付けを続けている。人生のほとんどの思い出が残る家。より悩んだのは弟かもしれない。

 

 

 

 

 後悔しないことをモットーに真剣に考える

 

振り返ると、なんと多くの悩み、迷いの機会に出会って、そのつど決断を繰り返してきたことだろう。羅列した以外にも小さな決断は山のようにある。「後悔しなくてすむように」いつも懸命に考えてきた。結果的に後悔していないからそれでよかったんだと思う。

 

ただ、私の人生の軸にあるのは「絵を描くこと」なので、それはずっと続けている。はっきり言って「絵を描くための環境が守られるなら」ほかのことは結構どうでもいい。私はそういう人間らしい。

 

自分軸に生き甲斐をしっかり置いて(だから職業にしないことが大事)他の仕事は全部学びだと思っていたし、だからこそ楽しかったんだと思う。

 

私の人生はとても密度が高い。その中心にあるものを大切にして、家族を守ってきた結果だと思う。そして決めたことについては出来るだけプラス面を見つめること。それに尽きるかもね (^_^;)

 

転んだ時はなにかを掴んで立ち上がるチャンスです。


大変な人生だけど、幸せです (^_^) あとは願いどおりに死ぬまで好きな絵を描き続けたいとひたすら願っている。

 

 

#「迷い」と「決断」

 


遊びをせんとや生まれけむ 戯(たはぶ)れせんとや生(むま)まれけん
遊ぶ子供の声きけば 我が身さえこそゆるがるれ

 

 

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いろんなことがある程度決まるまで、それだけ気を張っているんだと思う。だからなんとなくほっとすることがあると一気に反動が来る (ーー;)

 

 

#「迷い」と「決断」

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