自分が、もしくは家族がなにかの病気になった時はどうしますか?一時的な風邪くらいだと、取りあえずの対処法で看病が出来ますが、それがもっと重大な慢性病だったとしたら…?
いろいろありますね。入院が必要な病気や、長い治療期間が必要な病気だったら…。そしてそれが生命に関わるようなものだったら…。
自分の病気だったらもちろんのこと、家族の病気でもその病気について詳しく調べませんか?対処法や治療法を知りたいというのも、もちろんですが、長いあいだ闘う、もしくは付き合うことを余儀なくされる相手です。相手を詳しく知りたいと思うのは当然の欲求だと思います。
で、その慢性病の中には精神科の病気も含まれると思います。
精神科の病気の場合、なにしろ見えない相手ですから、患者自身はもうそれこそ必死で調べます。自分を苦しめる相手の正体に少しでも近づきたいというのも当然の欲求だと思うのですね。
ただ、精神科の病気の場合は、身近な人たちの対応が身体的な慢性病の場合とちょっと違います。患者自身と同様に親身になって調べたり協力してくれたりする家族がいる場合は幸せです。
なぜでしょうか?昔からの偏見が今でも残っている領域だからでしょうか?精神の病だというだけで忌避するような風潮がいまだにこの社会の中には根強く存在するようです。
私が知る範囲では、双極性障害のことを、実家の実の親や姉妹に悪く近所で言いふらされていた、という話を聞いたことがあります。正直、なんて無知で思いやりのない人たちだろう、と呆れつつも頭に来ていましたが。
少し調べれば、この病気には家族性というか、遺伝子的な変異が左右するものらしいので、血を引く家族なら因子はみんなが持っていると思ってもいいのではないかと思います。たまたま発病して患者になった人がいるというだけです。その患者である家族に向かって貶めるような行為は結局天に唾することと同じではないかと思います。
この人たちはもし自分が同じ病気になった時、同様に貶められても仕様がないようなことをしてるんですね。無知とか無理解とか、そういうものは怖いですね。
この構図は福祉の形と極めて近いと感じました。
たとえば生活保護の問題ですが。保護費を削れとか、行状を監視しろとか、そういうことを主張する人たちは、いざ自分が受給する立場になった時はそれを同様に受ける覚悟があるんでしょうか?そもそも生活保護なんかやめてしまえ、という声もあったりします。そういう人は自分が病気で無一文になった時、誰にも、どの制度にも救われずに死んでいく覚悟があるのだろうか?とも思います。
本当にお互いさま、というのが福祉の原点ではないかと思います。
友達なら助けてあげますか?知らないひとを見殺しにしても平気ですか?知らないひとでも助けてあげたい。そのかわりに自分が困った時は知らない人が助けてくれるだろう、という…。社会全体を囲む「お互いさま」の気持ち。
災害の被害を受けた人に義援金を送るのも、ボランティアで手伝うのも、社会的な福祉制度をきちんと運用してくのも根っこは同じですね。見えなくても、どこかで困っている知らない人を助けてあげてください。
同様に身近なところで精神の病に苦しんでいる人たちも、ちゃんと正しく理解してあげてください。そして協力してあげてください。我々にはそういう理解が最も強い励ましになるのです。