
自殺出来ない理由
訪問看護師さんのお仕事中にケータイのエリアメールが入って、一瞬驚く。すぐに訓練だとわかったけど、ちょうど今、裏のお宅の解体工事中で、うちまで結構揺れるんだよね〜 (ーー;) 何気に驚かされる日々でした。
あの日から3年かあ…。当時はホントに共感疲労の極地、というほどにオタオタしていましたが、さすがに3年経つと、いろんなことをいくらか落ち着いて眺められるようになる気がします。地震のことも災害のことも脱原発運動も福祉のこともその他もろもろ。亡くなられた方々と生き残った我々と…。生き残ったからこそ、真剣に考えて行動する義務というか、責務があるよなあ、とつくづく思います。
昨日の話題になんとなくリンクしてますが、スピリチュアルに親和性を感じるようになると、それゆえに自殺が出来なくなる、というのがあります。
今、この世界で生きているあいだに、自分が決めて果たすために持ってきた人生の目的のようなものが存在するらしいのですね。証明は出来ませんが、自分が「確かにそうだなあ」と思う直感はほぼ外れない、という実績がありますので…。
で、まあ課題を持って、魂の修業のために生まれてきたからには、それを途中で投げ出す行為が自殺になってしまうわけです。仮に自殺を遂げたとして、完遂出来なかった課題はまた次の人生でやり直さないといけなくなります。もしかすると最初から。
現在8割くらいまで出来ているとしたら、それをわざわざゼロにしてやり直すのはまっぴらな感じですし。40キロ近くまで走ったマラソンをそこで棄権するのは嫌だしなあ… (ーー;) 時間をかけてもゴールに入らないとつまんないよね、と私は思う。
正しいかどうかは別にいいのです。自分がそれでいいと思っているから。で、実際にこの考え方が私の自殺の抑止力になっているのは確実ですから…。死んだ方がいい、と思う事なんて数えきれなくあるけれど、いまだに行き続けているのは多分、これが理由です (^_^;)
母がしばしばお茶をこぼします。昨夜なんかテーブルの下が何度もびしょびしょになりました。
看護師さんが他の患者さん宅で見かけたという容器を検索してみる。
「そこのお宅は介護用品カタログをごらんになってましたよ」「どこのメーカーかわかります?」「えーとね、確か○○コーポレーション」
その社名で検索したらデジタルカタログに出会いました。でもこれ、個人で買えるのかなあ?とさらに商品名で検索。
見つけました。
なんだ、Amazonでも売ってるし。で、早速に注文。ストロー付きもあるんですが、母がこちらがいいと言いましたので。本体部分が柔らかくて、押すと飲めるらしいです。これならふたを忘れても横にしてもこぼれないだろうな。便利そう (^_^;)
検索のコツがわかればすぐに見つかる。便利ですね〜。やっぱりネットは限りなく必要なライフラインです。
ネットがない時代、どうやって調べモノしてたんだろうな?書店と図書館しか思いだせないなあ。それだって今思えば役不足だし。情報に踊らされないように今は訓練が必要ですが。
