そろそろ疲労がたまってきたのか、今朝はなかなか起きることが出来ませんでした。2〜3時間はごろごろしていたのですが、お昼前にはマッサージの先生が来られますし、終日寝ているわけにもいかないなあ、と、かなり努力して無理やりに起きました (ーー;)
なかなか終日寝込むなどという状況は難しいようです。
今朝は母も具合が悪かったようで、若い頃からの不調の時代を思い出して(そもそも母に双極性Ⅱ型の傾向があったように思われます)、仏壇の前で泣きながら父に語りかけておりました。
で、不思議なのですが、母の喋る内容に合わせて、蝋燭の炎が10センチ近い高さまで燃え上がったり、小さくなったりを繰り返しまして。本当に父の返事というかメッセージのように思えました。
「うん、もうめげないで頑張る!」と母と二人で言った途端に炎は小さくなって、通常の状態に戻りました。それでもお線香の煙は微風があるにも関わらず、ずっと上にまっすぐに昇っていました。
この語りかけに対しての返事はいろんな形で現れます。やはり仏壇の花が揺れたり、父の写真が瞬きしたり。
母が熱を出して寝込んでいる時は一晩中枕元に座っていてくれたそうです。最初は弟かと思ったけど(親子で似てるから)、実は父だった、と言っていました。まあ、思えば不思議な現象のようですが、うちの家族は基本的になにがあっても驚かないし、ましてや父のことですから、ただただ嬉しく、かつ懐かしいのみですね〜 (^_^;)
私もいまだに、いつどこにいても父のことを思い出すとじわ〜っと涙が溢れてきます。
そうだ。ついでだから父の思い出を書こうかな。
父は1930年生まれ。終戦の時には多感な時期でした。どーっと日本に入ってきたあらゆる海外の文化に憧れて、なかでもハリウッド映画が大好きで、週に2,3度は映画館に通っていたようです。
そこから派生して、映画音楽やポップスも大好きでした。このあいだ父のタンスの引き出しの奥から、その年代のものとおぼしき78回転のレコードを発掘しまして、伯父がCDに焼いてくれたんですが、なんだか懐かしい当時のポップスと映画音楽ばかりでしたね〜 (^_^;)
あの時代にはハイカラなイメージがあります。
まだ渡航が一般的ではなかった昭和40年代あたりから、出張で海外に行く機会が増えました。フィリピンや台湾や香港や…。残念ながらヨーロッパに行く機会はなかったようですが。(叔父の方があちこち言ってるな30カ国以上。やっぱり仕事でですが)
エンジニアでしたので、海外への技術輸出の先駆けになった世代だと思います。
神経質な父がよくあちこち行けたなあ、と思うんですが、そこは無類の飛行機好きだったからかもしれません。うちには飛行機のエンジン音と空港のアナウンスだけをおさめたカセットが何本もあります。オタクですね (^_^;)
脳梗塞の発作が起きた直後はまだ喋ることができたので、「ボーイング787の本が欲しい」とか言っていました。
なかでも一番多くの回数と長い期間滞在したのはアメリカです。
映画を通じて、アメリカというのはずっと父の憧れの国でした。アラン・ラッド(『シェーン』の主役)やエルヴィスが大好きで、ハリウッドに行った時はアラン・ラッドの手形に手をかさねる嬉しそうな写真が残っています。それとスミソニアン博物館も (^_^;)
アメリカも一番長くいたのはアトランタの近くのグリーンズボロですね。(今はゴルフで有名か)
自炊もしていたようです。現地の取引先のお宅に招待されたり、国際免許を取っていたので、運転もしていたようですが、どこまで行っても対向車もなければ、人家もない、と驚いて、国土の広大さを実感したようです。
やっと集落に辿り着いて、車を止めて休んでいたら、近くの家の人が声をかけてくれて、とても親切にしてもらった、と喜んでいました (^_^;)
あちらで飲んだバーボンがすごく美味しくて、買って帰ったのに、日本で飲んだら味が違う、と言っていましたが、やはりそれはアメリカの空気と水のおかげじゃないの?と思いました。
アメリカに限らず、父が行ったすべての国の、そこの悪口って聞いたことないですね〜。仕事の部分ではいろいろあっただろうな、とは思いますが、個人的な体験では良かったことしか残らなかったのかなあ、と思います。
そういうこととか、いろんな意味で、やっぱり私は父を尊敬していますし、今でも変わらず、いや、もしかしたら生きていたころ以上に大好きです (^_^;)